新チームがスタートしてからも、熊代聖人の心には延長サヨナラ負けを喫した甲子園での敗戦が色濃く残っていた。
「誰も言わないけれど、負けたのは自分の責任だと強く感じていました。だからこそ、また絶対に甲子園に行こうと。もう、死に物狂いで練習しました」
 熊代にとって甲子園はもう“憧れの舞台”ではなく“雪辱の場”となっていた。
 新チームには甲子園経験者が5人残っていたこともあり、今治西は県内では無類の強さを誇った。秋の公式戦では三島高校に10−0で大勝した初戦を皮切りに準決勝までの5試合で4試合をコールド勝ち。コールドのない決勝の新田高戦も17−1と力の差を見せつけた試合となった。

 続いて行なわれた四国大会では決勝で高知高校に敗れたものの、1−2という惜敗だった。その高知が明治神宮大会で優勝したことを考えれば、今治西の全国優勝も決して夢ではなかった。翌年、今治西は高知とともに四国代表として春の選抜大会出場の切符を手にした。2カ月後、熊代たちは意気揚々と甲子園に乗り込む……はずだった。しかし、突然、チームの歯車が狂い始めた。

 それは選抜を2週間後に控えた3月半ばのことだった。愛媛県内の高校10校が集まり、交流試合が行なわれた。県代表として甲子園に出場する今治西をバックアップしようと同校出身者が率いる野球部が集まり、実戦の場を提供したのだ。ところが、今治西はこの交流試合をきっかけに最悪な状態に陥ることになってしまう。

 2日間に渡って行なわれた交流試合、今治西は3勝1敗という成績を残した。だが、このたった1度の敗戦が今治西をどん底に陥れた。普段なら絶対に負けない相手に熊代はメッタ打ちにされた。結果は新チームになって初めてのコールド負け。チームが受けたショックの大きさは計り知れないものがあった。

 一度かみ合わなくなった歯車を元に戻すのはそう簡単ではなかった。大野康哉監督はもう一度選手に自信を取り戻させようと、甲子園出発の3日前に済美高校との練習試合を企てた。済美には秋の大会で10−2のコールド勝ちを収めていた。ところが、今度は逆に0−8のコールド負けを喫してしまった。

「オマエら、これじゃ納得いかんぞ。オレは諦めんからな!」
 大野監督はどうしても勝ってチームに勢いをつけさせたかったのだろう。翌日、授業が終わると再び済美のグラウンドで試合を行なった。しかし、またもコールド負け。3度目の正直とばかりに挑んだ翌々日も大量失点を喫した。3日連続のコールド負けにチームはすっかり士気が下がっていた。3度目の試合を終え、学校に着くと時計は既に深夜0時を回っていた。実はその日は甲子園出発日。6時間後には再びグラウンドに集合しなければならなかった。

「僕のように地元を離れ、アパートで一人暮らしをしていた者は、自分で洗濯や準備などをしなければならなかった。寝たのは3時頃だったと思います」
 そう言って、少し間を置いて熊代はこう言った。
「そりゃ、勝てませんよね(笑)

 この一言が全てを物語っていたのではないだろうか。心身ともに疲れきった状態で臨んだ今治西は1回戦こそ逆転勝ちを収めたものの、やはりいつもの打線の勢いはなく、7回まで得点はわずか1にとどまった。中盤に逆転を許し、1点ビハインドで迎えた8回に笠原綾太の2点タイムリーで1点を勝ち越し、なんとか逃げ切っての勝利だった。
 熊代自身も2失点完投勝利を収めたが、状態は決してよくはなかった。インタビューで答えた自己採点は「30点」。自分のピッチングはほとんどできていなかった。

トンネルの中の2カ月間

 4日後、常葉菊川高校(静岡)と対戦した。常葉菊川は前年秋、東海大会で優勝し、明治神宮大会ではベスト4に進出していた。
「甲子園の宿舎で、高知と対戦した明治神宮大会準決勝のビデオを観ました。どの選手も体の線が細くて、特に強さを感じなかった。監督さんも『問題ないな』と言っていたんです」
 ところが、甲子園に現れた常葉菊川ナインはがっちりとした体格に変身し、見るからにパワーがあった。

 序盤は両者ともに先取点を奪えず投手戦となったが、5回表に均衡が破れた。熊代は1死から内野のエラーでランナーを出すと、次打者に右中間を真っ二つに割られ、先制を許した。さらにフィルダースチョイスで1死一、三塁。続くバッターにはフェンス直撃の三塁打を打たれ、2点目を奪われた。次打者を三振に打ち取り、2死とするも、アクシデントが熊代を襲った。3番・長谷川裕介に投げたストレートがシュート気味に内へ入り、長谷川の顔面を直撃したのだ。熊代は表面こそ平常心を装っていたが、やはり動揺していたのだろう。その後のピッチングではボールが高めに浮き、連打を許した。この回、なんと6失点を喫してしまう。

 その裏、先頭打者として打席に立った熊代は汚名返上とばかりにセンターへ安打を放った。続く5番・笠原も記録はエラーとなったが、一、二塁間を破り、無死一、三塁と今治西は絶好のチャンスをつかんだ。だが、6番・潮尚宏は空振り三振、7番・水安洸太はセカンドフライ、代打出場の十亀貴洋も空振り三振に倒れ、今治西は1点も返すことができなかった。

 熊代は8回表に2点を失うと、記録上はパスボールとなったものの、暴投ともとれるボール球でさらに1点を追加された。次打者をストレートの四球で出すと、大野監督はレフトの水安との交代を命じた。
「正直、5回くらいから『これは、ダメだな』という思いはありました。というのも、どこに投げようが、何を投げようが、しっかりとついてこられていた。常葉菊川はビデオで見た明治神宮大会の時とは全く違ったチームになっていました」
 結局、打線も常葉菊川のエース・田中健二朗に3安打17奪三振を喫し、0−10。熊代にとって2度目の甲子園は完敗に終わった。

 選抜が終わっても、チームの調子は上がらなかった。春は四国大会に進出したものの、初戦で0−1の完封負け。その後の練習試合も思うような試合ができずにいた。
「その時期は、普通だったら僕たちがコールド勝ちしているようなチームにもコールド負けしていました。もうどんな試合にもどんなチームにも全く勝てなかったんです」
 チームは先の見えないトンネルの中をさまよい続けた。それでも大野監督の「ここまで落ちたら、もう上がるしかない」という言葉に励まされ、熊代たちは耐え続けた。 

 ようやく今治西に光が見え始めたのは5月に行なわれた沖縄・愛媛交流試合でのことだった。特待生制度問題で辞退した済美の代わりに参加した今治西は、中部商業高校、豊見城高校と対戦し、2連勝を飾った。なかでも中部商戦での勝利はチームに自信を取り戻させた。

「これまでは僕が打って勝つというのが当たり前でした。でもその試合、僕はノーヒットに終わったんです。代わりにみんなが打ってくれて、逆転で勝つことができた。“熊代だけじゃない”ってところを見せられて、みんなが自信をもつことができたと思います。僕も投げる方では2失点完投した。この1勝で気持ちが吹っ切れましたね。そこから夏に向けてチームの調子はグングン上がっていきました。ほんと、気持ちって大きいなと痛感させられました」
 続いて行なわれた豊見城戦、今治西は本来のバッティングを取り戻し、8−1と久々の快勝に沸いた。

 2カ月後、今治西は2年連続で県大会を制した。決勝で済美を破っての優勝、と春の借りをきっちりと返し、3季連続となる甲子園の切符を掴み取った。
 熊代は全5試合を投げ、うち4試合を完投した。失点はわずか2とエースの風格たっぷりのピッチングを見せた。自身、「3年間で一番」というほど、調子は最高潮に達していた。

 果たされた日本一への夢

 泣いても笑っても最後の甲子園。今回こそは悔いを残したくなかった。
 初戦の八代東(熊本)戦は15安打の猛攻で12−1と圧勝した今治西は、2回戦で近江高校(滋賀)と対戦した。この試合は、白熱した投手戦となり、5回までともにゼロ行進が続いた。

 ようやく均衡が破れたのは6回。1死二塁から笠原のタイムリーで今治西が待望の1点を挙げた。結局、これが決勝点となった。7回以降、再び打線が沈黙し、追加点を奪うことができなかったが、今治西はこの1点を死守した。熊代は2安打完封勝ちを収めた。

「僕にとってこの1勝は大きかったですね。甲子園での初完封ということもありますが、それもこれもみんなが必死で守ってくれたからです。“守って勝つ” 今西野球で、1点をみんなで守りきった。それが嬉しかったんです。 “みんながあって自分がある”ということを最も感じられる試合でした」

 3回戦の文星芸大付属(栃木)戦も熊代は2失点完投した。打つ方でも2−2で迎えた最終回、決勝弾となる勝ち越しソロを放ち、チームを26年ぶりのベスト8に導いた。

 翌日に行なわれた準々決勝の広陵高校戦(広島)、序盤は今治西が試合の主導権を握った。この試合も先発のマウンドに上がった熊代は伸びのあるストレートとキレのある変化球を際どいコースに投げ分け、広陵打線を翻弄した。解説者をもうならせるほど、そのコントロールは素晴らしかった。

 熊代は打つ方でも絶好調だった。初回、2死二塁の場面では自らセンターのフェンスを直撃する先制タイムリーを放ち、チームを勢いづけた。3回裏には2打席連続のヒットを放ち、1死一、二塁のチャンスを演出した。続く笠原も一、二塁間を破り、今治西は1死満塁とした。しかし、6番・潮尚宏、7番・尼田一輝と連続三振を喫し、無得点に終わった。これが流れを変えるきっかけの一つとなる。

 4回表、熊代は1死からランナーを出すも、牽制で盗塁を刺し、2死無走者とした。ところが、ここから熊代のコントロールが乱れ始めた。2者連続で四球を出し、自らピンチを招くと、まずはレフト前に二塁打を打たれ、同点とされた。熊代は次打者を選抜後に覚えたという縦のスライダーで2ストライクまで追い込む。そしてファウルで粘られた後の6球目、キャッチャー潮のサインに何度も首を振り、熊代が選んだのはやはり縦スラだった。だが、このボールが高めに入り、三遊間を抜ける逆転タイムリーを打たれた。

 運も広陵に味方をしていた。5回表、1死二塁の場面で広陵の1番バッターが変化球をひっかけた。完全に打ち取った打球だった。ところが、ファーストが補球しようとしたその瞬間、バウンドがイレギュラーし、ボールはライトへと転がっていった。その間に二塁ランナーが一気にホームに返り、ラッキーなかたちで広陵に追加点が入った。

「明らかなエラーだったら、また違うんですけど、どうしようもないイレギュラーとかが出ると、もうそれ一つで流れがガラリと変わるんですよ。それで得点した方は勢いづくし、逆に失点した方は落胆が大きい。だから、ああいうかたちで逆転されて、神様に“もういいよ”と言われているような気がしました」

 疲労もピークだった。2年春からほぼ一人で投げ続け、連投に連投を重ねてきた熊代。その右腕は、限界に達しようとしていた。しかし、試合前からエースに全てを託すことを決めていたのだろう。大野監督はどんなに点差が離れても、熊代を代えようとはしなかった。熊代も指揮官の期待に応えようと最後まで力を振り絞り、力投した。

 だが2回以降、今治西は追加点を奪うことができず、とうとう6点ビハインドで最終回を迎えた。9回表、最後のマウンドに上がった熊代は思いっきり腕を振って投げ込んだ。ストレートは140キロを超え、さらには変化球のキレが戻っていた。いや、それ以上に一球一球に気持ちが込められており、観ている者を惹き付けた。

 2死を取り、最後のバッターを迎えた熊代の目にはうっすらと涙が浮かんでいた。この涙は単に負けていることへの悔しさからではなかった。
「実は、もうこの時には高校卒業後は野手に転向することを決めていたんです。だから『ピッチャーとしてマウンドに立つのはこれが最後なんやな』と思ったら、涙が出てきてしまいました」

 最後のバッターをサードゴロに打ち取り、熊代はベンチへ向かいながら必死で涙を拭った。ベンチに戻ると、大野監督が熊代の元へやってきた。そして頭を2、3度、まるでなでるかのように軽くポンポンと叩くとこう言った。
「オマエ、よう今まで投げてくれたなぁ。ありがとうな」
 熊代は流れる涙をどうすることもできなかった。

 結局、試合は1−7で敗れた。だが、試合後の熊代には悲壮感は全く感じられなかった。「納得していました」と言うように、清々しい気持ちだったのだろう。他のチームメイトが悔しそうな表情を浮かべていたのとは対照的に、何度も笑顔を見せていたのが印象的だった。熊代は忘れ物をすることなく、全力を出し切り、甲子園を去っていったのである。

 そんな彼に思いがけず、神様からの贈り物が届いたのは秋の寒さが色濃くなりつつあった10月のことだった。最後の公式戦として臨んだ秋田わか杉国体で今治西は優勝を果たしたのだ。しかも決勝の相手は広陵だった。

 初回に今治西が1点を挙げるも、その後は熊代と甲子園準優勝投手・野村祐輔がどちらも一歩も譲らない投手戦を展開した。試合は今治西1点リードのまま最終回へと突入した。いよいよ今治西の優勝までアウト3つと迫る。ところが、広陵が底力を見せ、土壇場で追いついた。しかし、今治西は勝ち越しを許さなかった。

 国体には延長はない。もしそのまま引き分けに終わっても、両校の同時優勝となった。つまり、この時点で今治西の優勝は決まっていたのだ。だが、大野監督は同時優勝など考えていいなかった。
「単独で日本一になろうや!」
 指揮官のこの言葉に選手たちは燃えた。いきなり先頭打者が二塁打を放つと、次打者が初球打ちで、あっという間に優勝を決めてしまったのだ。

「優勝の瞬間? もう、メチャクチャ嬉しかったですよ。まさか最後に優勝してしまうなんて……。『うわ、やべぇ。ちょっと、待って。オレら日本一やで!』なんて言いながら、もう大興奮でした(笑)」

 最後の最後に念願だった全国の頂点に立ち、熊代は最高のかたちで高校野球の幕を閉じた。そして「投手・熊代聖人」にとっても有終の美を飾ることとなったのである。

(最終回へつづく)

<熊代聖人(くましろ・まさと)プロフィール>
1989年4月18日、愛媛県久万高原町生まれ。小学4年から野球を始め、中学3年時にはボーイズ・松山プリンスクラブで西四国大会優勝を果たし、全国大会に出場した。今治西高校では2年からエースとして活躍。打者としても主軸を担い、3季連続甲子園出場を果たした。3年夏にはベスト8進出。秋の国体で優勝し、投手として有終の美を飾る。3年後のプロ入りを目指し今春、日産自動車に入社。投手から打者に転向し、現在は「3番・セカンド」に定着している。175センチ、72キロ。右投右打。






(斎藤寿子)
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