周囲からみれば予想だにしなかった朗報だった。エースのサブマリン塚本浩二(東京ヤクルト)、主砲の丈武(東北楽天)の指名で会見場が盛り上がる中、次に名前を呼ばれたのが生山裕人。千葉ロッテ育成4巡目での指名だった。福岡ソフトバンクから指名を受けた堂上隼人ら3人がスーツ姿で喜びを語る中、準備ができていなかった23歳はジャージにジャンパーのいでたちで晴れの場に加わった。
 7%の期待が現実に

「実は指名の可能性は7%くらいはあると思っていました」
 その舞台裏を生山は明かす。ドラフト前日、先輩の指名の瞬間を見守ろうと思っていた生山は球団から「明日はきれいめのジャージで着てくれるか」との指示を受けた。「きれいめって何やねん!」。部屋に戻って探したが、練習で汚れたジャージしか見つからず、上にジャンパーをはおることにした。

 不思議なことはそれだけではなかった。突然、西田真二監督から携帯に着信があった。「おい、お母さんの連絡先、教えてくれるか?」。言われるがままに母の電話番号を教えた。「何かあるんちゃうか?」。チームメイトの勧めもあり、母に連絡をとってみた。「監督から、何て電話やったん?」「いやー、今までのお礼とか……」。何かを明らかに隠している様子だ。確かに複数の球団のスカウトが見に来ていることは知っていた。しかし、今シーズンはヒジを手術し、48試合で打率.221。出場試合数、成績ともに前年を下回った。「まさか、今年はないやろう。でも、ひょっとしたら……」。わずか7%の期待が現実となった。

 2年前、アイランドリーグのトライアウトに合格したことすら、予想外の出来事だった。将来の夢は先生か芸人になること。教育大を目指したが一浪し、最終的に入ったのは文芸学部の芸術学科、演劇コース。所属したのは準硬式野球部、それもサークル同然の2部チームだった。

 ただ、野球への情熱は抑え切れなかった。平日は準硬式部の活動をしながら、土日は硬式クラブチームの八尾ベースボールクラブでプレーした。クラブチーム一本に絞ってからも平日は出身高校に出かけて後輩たちと汗を流した。「野球をしたくてしたくてたまらない状態やったんです」。そんな時、アイランドリーグのトライアウト募集が目に留まった。「(当時の)年齢制限の24歳まで受け続けてムリやったら、諦めがつくやろう」。応募したのは、自分の野球に対する未練を断ち切り、次のステップへ進むための意味合いが強かった。

 1次試験の遠投と50メートル走はまずまず。ところが、2次試験のシートバッティングは散々だった。「アカンわ。ええ四国旅行やったな。大阪へ帰ろう」。帰りのバスを待っていると、リーグ関係者からの着信音が鳴った。「生山選手に興味のある球団がある。もう1日、よかったら練習参加してもらえませんか?」

 高校、大学と生山は主に捕手をやっていた。「内野で受ければ、外野も含めてどこでもできると見てもらえるかな」。イチかバチか、ほとんど守った経験のないショートでトライアウトを受けた。それが香川・西田監督の求めていた人材と合致した。若くて足が速い内野手。すべり込みで緑のユニホームに袖を通すことになった。

 観客へのアピールがスカウトのアピールに

 とはいえ、リーグの他の選手と比べれば、野球選手としての実績も基礎もないのは明らかだった。俊足とはいえ、クセの盗み方も教えてもらったことはない。スタートの切り方もよくわからない。
「どうやったら、生き残れるかな」
 真っ直ぐ走るだけならすぐにできる。それが生山の出した答えだった。ヒットだろうが、凡打だろうが一塁を全力で駆け抜けること。攻守交替の際に、全力でベンチと守備位置を往復すること。首脳陣へのアピールはもちろん、観客にも名前を覚えてもらえれば、との思いで毎試合、継続した。

 だが、その姿勢は意外なところへのアピールにつながった。スカウトである。「いい当たりで全力疾走するのは当たり前。でも納得できない当たりでも最後まで走ってくれた。足の速さが印象に残りました」。指名したロッテの黒木純司スカウトはこう明かす。「技術は劣るが、あれだけの足を活かせば補うことができる」。当初、野球を諦めるために挑戦した四国の地が、いつの間にかに野球を続ける飛躍の場へと変わった。

「去年の柳田(聖人)コーチにはつきっきりでノックしてもらいましたし、西田監督にはとにかくバッティングは“引っ張れ”“左バッターは引っ張らんと魅力がない”と何度も言われました」
 生山の潜在能力に目をつけた首脳陣も一から指導に当たった。その中で学んだのは“継続の大切さ”だった。「ケガから復帰して、今年の終盤は打撃の調子が良かった。その理由は重心を低くして、しっかりボールを引き付けていたから。でも、ついつい結果がほしくなると、重心が浮いて当てにいくバッティングになってしまう。練習でもあれこれ試したくなる。すぐに監督から“オマエは続けんからダメなんや”と叱られました」

 余計なことは考えず、ひたすら自分の打てる形でしっかりバットを振った。愛媛とのリーグチャンピオンシップでは第2戦で同点タイムリー。NPBと対戦した秋のフェニックスリーグでは東京ヤクルト戦で3塁打をマークした。「バッティングがわかってきたとまでは言えないけど、感覚はつかんだ」。春より夏、夏よりシーズン終盤と着実な進歩がみられた点もスカウトは高く評価している。

 普通という言葉は嫌い

 香川時代、生山は自ら希望して背番号「7」を選んだ。それは小さい頃からの憧れていた選手の背番号である。真弓明信。現役時代は史上最強の1番打者の異名をとり、今年から阪神タイガースの監督に就任する。初めて甲子園に阪神戦を見に行った時のことは今でも忘れない。真弓ファンだったという父からグッズショップでサインボールを買ってもらった。それが野球を本格的に始めるきっかけとなった。

 野球のエリートコースに進めなかった生山少年にとって、「本は野球の先生」だった。技術解説本から関連書籍に至るまで野球にまつわる本は可能な限り読んだ。そんな時、ある本で「球界一の走攻守揃った名プレーヤーは誰か」との特集が組まれていた。記事内のあるくだりに目が留まった。「ナンバーワンは真弓明信である」。バッテリー以外の内外野をどこでも守った点、しかもセカンド、ショート、外野の3ポジションでベストナインを受賞した点、1番打者でありながら3割、30本を越える成績を残した点……。さまざまな理由が本には書かれてあった。

 生山が目指す選手像もまさに真弓明信そのものである。機動力を活かせる1番タイプ、そして内外野をどこでも守れるユーティリティープレーヤー。右打ちと左打ちの違いこそあれ、単なる子ども時代の憧れが、時を経て一歩、現実に近づいた。「交流戦でロッテの1番バッターとして、甲子園に乗り込んで真弓監督の率いる阪神と対戦したい」。NPBでの目標が新たに生まれた。

 とはいえ、立場はまだ育成選手だ。1軍で戦うには競争を勝ち抜き、支配下登録される必要がある。まだ足りないものがたくさんあることは自覚している。しかし、いや、だからこそ、生山は支配下登録を目標に掲げることはしない。

「他の選手と似たような“普通”の目標は立てたくない。普通という言葉は嫌いです。人と違うことをしたいんです。大物になる人はみんなブッ飛んでいるでしょう?」
 目標は「目指せ、変人」だ。少々、ヘンだと思われてもいい。モットーの全力疾走を基本にキラリと光るインパクトのある選手になりたい。だからこそやるべきことをひとつずつクリアしていくつもりだ。これまでの一風、変わった野球人生は、まだ生山裕人にとってプロローグが終わっただけである。

※今月の当コーナーは先のドラフト会議で四国・九州アイランドリーグから指名を受けた選手を特集します。次週(29日更新分)ではキム・ムヨン選手(福岡−福岡ソフトバンク)を取り上げます。

<生山裕人(いくやま・ひろと)プロフィール>
1985年8月10日、大阪府出身。天王子高を経て近畿大学時代は準硬式の2部でプレー。八尾ベースボールクラブにも所属し、07年より香川へ。昨季は60試合で打率.271。今季は48試合で打率.221と振るわなかったが、将来性を見込まれて千葉ロッテから育成4巡目指名を受けた。50メートル5秒8の俊足と広角に打てる打撃が持ち味。右投左打、182センチ、74キロ。







(石田洋之)
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