五頭寛大(東京グレートベアーズ/愛媛県松山市出身)第2回「自然と始めたバレーボール」
東京グレートベアーズ(東京GB)の五頭寛大(ごとう・かんだい)は2003年1月25日、愛媛県松山市に生まれた。「外で遊ぶタイプで、家にあまりいませんでした」。五頭曰く「田んぼと海が近くにありました」という長閑なまちで、活発な少年時代を過ごした。
幼少期、近くの公園で友人とサッカーや野球に明け暮れる日々を送った。「家に帰らず心配かけるというほどではなかったですが、親から怒られることも多く“ヤンチャな”子だったと思います」。球技は好きだった。だが走るのは得意でなく、運動会で“ヒーロー”になるタイプではなかったという。
バレーボールを始めた年齢を聞くと、「はっきりと覚えているのは小学2年生の時です」と答えた。地元の潮見スポーツ少年団に入団した時のことである。こういう言い回しになったのは、「母親と姉2人がバレーボールをしていた」からで、入団前から自然と親しむ機会があったからだ。
五頭によれば、潮見スポーツ少年団は愛媛県内の強豪チーム。練習は週6日だったという。本人は「(母親と姉の影響で)バレーボールをやらざるを得なかった」とは言うが、「はじめから、ある程度はできていた。“できるから楽しい”という感じだったと思います」と壁にぶつかることもなかった。
「本当はサッカーや野球をやりかった」と競技を始めたばかりのことを述懐する五頭だが、バレーボールの道を選んだことに後悔はない。小学3年時と5年時に全国大会を経験。中学もバレーボール部のため、通学に自転車で40分ほどかかる松山市立雄新中学を進学先に選んだ。
全国への想い
全国大会常連校を選んだのは「キャプテンだった小学6年の時に全国大会に出られなかった。だからこそ“全国大会に出たい”という思いが強かった」からだ。それに同学年の選手たちが雄新中に集まるという話も耳にしていた。
ちなみに雄新中の1学年上には現在東京GBでチームメイトとなった後藤陸翔がいた。
バレーボールを始めた当初からポジションはリベロではなかった。「スパイクにあまり自信がなく、レシーブの方が得意だったと思います」とは現在にも通ずるところだ。アタックで得点を奪うことよりも、相手のアタックを止めた時の方に喜びを感じていたという。
ネットが高くなり、周りの先輩後輩との身長差も感じ始めた頃である。「スパイカーとしてやっていくのは難しい。そういう壁は感じましたが、レシーブに関してはやっていけるという手応えがありました」
守備力を評価されて中学2年生でレギュラーの座を確保。ポジションはライト、レフトと変遷していった。3年生終盤からセッターにチャレンジした。チームでも上背がある方ではない。「(セッターが)向いているとは思っていませんでしたが、できないことはない」。彼の“とりあえずやってみよう”という精神がポジション転向を受け入れた。ネガティブ志向に陥らないのも五頭の強みと言えよう。
中学2年で全国中学校大会(全中)3位、主将を務めた3年時は全中ベスト8に入った。全国大会上位を経験しながら頂点には届かなかった。卒業後の進路は誘いを受けた高校の中から、「全国優勝を狙うには東山が一番近い」と京都の強豪校に決めたのだった。
(第3回につづく)
<五頭寛大(ごとう・かんだい)プロフィール>
2003年1月25日、愛媛県松山市出身。ポジションはリベロ。小学2年時に潮見スポーツ少年団で本格的にバレーボールを始める。同少年団、雄新中学で全国大会出場を経験。バレーボールの強豪・東山高校を経て、21年にびわこ成蹊スポーツ大学に入学した。大学3年時にV.LEAGUE(当時)のディビジョン1の東京グレートベアーズに入団。1季目から36試合中23試合に出場した。身長180cm。最高到達点310cm、指高230cm。右利き。背番号28。
(文/杉浦泰介)