見えてきた頂点

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 プロ野球でタイトルまで獲った名選手が、社会人野球チームを指揮するのは珍しい。監督就任1年目で日本選手権準優勝。男が目指した「意識改革」の内実に迫る。

 

<この原稿はビッグコミックオリジナル2015年1月号に掲載されたものです>

 

「何よりうれしかったのは選手権の最中に選手たちの気持ちが変わっていったこと。皆、口々に“勝つことが、こんなに楽しいことだとは……”と言っていました。来年に向けて、弾みがついたと思います」

 

 指揮官の口ぶりには、手応えと自信がにじんでいた。

 

 社会人野球の2大タイトルは夏の都市対抗と、秋の日本選手権である。

 

 2005年創部のセガサミーは、これまで都市対抗に7回出場しているが、最高の成績は2回戦。初戦負けが4回もある。日本選手権は過去2回の出場で、いずれも初戦負け。今年の日本選手権も戦前の評価は高くなかった。

 

 それが初戦で延長タイブレークの末に三菱重工神戸に競り勝つと、あれよあれよという間に勝ち進み、決勝にまで進出した。決勝ではトヨタ自動車に0対5と完敗を喫したが、準決勝まで2点差以内の試合を全てものにするなど、勝負強さが光った。

 

 チームを変えたのは元千葉ロッテの初芝清監督である。95年には打点王に輝いた90年代のパ・リーグを代表する強打者のひとりだ。

 

 昨年暮れに監督に就任した初芝が、まず取り組んだのが選手たちの意識改革だ。

 

「外から、ウチを見ていた時は大ざっぱな勢いに任せたチームかなと思っていました。で、実際に中に入ってみたら、やっぱり、そのとおりでした(笑)。

 

 もっとも、選手ひとりひとりを見ると、レベル的には低くないんです。ただ、考え方に問題があった。言葉は悪いけど、野球をやっているだけという印象を受けました」

 

 まず初芝が着手したのが「革手袋の使用禁止」だった。いったい、どんな狙いがあったのか。

 

「要するにバットを振るかたちをつくろうということ。皆さんだってゴルフクラブや車のハンドルを握った時、しっくりくる位置ってあるでしょう。あの感覚は素手でなければつかめない。素手でバットを振り込むことによってマメができ、握った時のフィット感が生まれる。最初から革手袋をはめていたんじゃ何も掴めない」

 

 といって技術の押し売りはしない。押しつけもしない。納得を得るまで丁寧に説明する――。簡単そうで、これが一番難しい。

 

 初芝は続ける。

「バッティングフォームひとつとっても、僕は選手が“これでいい”と思っているのなら、ほとんど変えません。本人が気付くまで待っています。また、そうじゃなきゃ成長できないんです」

 初芝は東京の二松学舎大付高卒業後、東芝府中で4年間プレーした。引退後は新日鉄君津が前身のかずさマジックでコーチも務めた。プロ野球と社会人野球の昔と今の双方を知る数少ない人物である。

 

 周知のように社会人野球は01年(クラブチームの大会は04年)まで金属バットを使用していた。その影響で、かつてはホームランが乱れ飛んでいた。

 

「社会人出身のスラッガーはプロでは大成しない」

 と陰口を叩かれたのも、この頃である。

 

 このジンクスを覆したのが初芝であり、石井浩郎(プリンスホテル)であり、小笠原道大(NTT関東)であり、松中信彦(新日鉄君津)であった。

 

「金属は(バットの)面をぶつける打ち方。逆に木はギリギリまで面を見せたらダメ。要は(木製は)内側から振り抜かなければいけないんです」

 

 そう話す初芝には打撃の師匠がいる。94年にロッテのヘッドコーチを務めた中西太だ。翌95年、初芝は80打点をあげ、初めて打点王に輝く。

 

 現役時代、「怪童」の異名をとった中西は首位打者に2度、ホームラン王に5度、打点王に3度輝く昭和を代表する強打者のひとりである。

 

 引退後はバッティングのスペシャリストとして、若松勉、掛布雅之、石井浩郎、ラルフ・ブライアント、岩村明憲ら数多くの強打者、巧打者を育て上げた。

 

 中西が重視したのが内転筋である。

 

「打つ時の力のバランスは後ろ足が60%で前足が40%。軸足にためたエネルギーを前足に移動させるためには、うまく内転筋の力を利用しなければならない」

 

 それが持論だ。もちろん、初芝も、この中西理論を受け継いでいる。

「外を打ちにいって、インコースのボールは腰でギュンと回る。この打ち方ができるようになってから結果が出るようになったんです」

 

 プロ17年で通算1525安打を放った。打点王を獲得した95年には、サードで初のベストナインにも選ばれた。その年には野手で球団史上初の1億円プレーヤーとなった。

 

 野茂英雄、工藤公康、郭泰源ら当時のパ・リーグのエース級と力対力の勝負を繰り広げた。その経験が選手のアドバイスに重みを持たせる。

 

「誰が速かったかといって、一番は全盛期の渡辺智男。ストレートを打ちにいったら、バットの上を通り、そのままキャッチャーミットにおさまった。打席であれ以上の真っすぐは、その前もその後も見たことがありません」

 

 味方ゆえ対戦経験はないが、当時の最速、伊良部秀輝(故人)の158キロにも立ち会った。

 

「西武球場でバッターは清原和博でした。僕はサードを守っていて、あのボールだけは目で追えなかった。こんなこと、今まで1回もありませんでした」

 

 現役時代の背番号は「6」。3冠王3度の落合博満から受け継いだ。初芝は落合の東芝府中の後輩にあたる。

 

 セガサミーでは「66」を背負う。「やっぱり6という数字には愛着があります」

 

 八王子の寮で選手たちと寝食をともにしながら、頂点への夢を追い続ける。

 

「ネオンも遠いし、野球に集中できるいい環境です」

 

 野球漬けの日々が続く。

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