キャンプイン直前だから 少々古い話になるが、ダルビッシュ有(北海道日本ハム)が中田翔(同)を叱ったそうだ。
「腹筋はやっているけれど、走ってないな」「筋肉も触ったけれど、あれじゃ駄目。(試合では)使えない」(「スポーツニッポン」1月27日付)というのだから、手厳しい。
 ダルビッシュには、おそらく中田を大きく育てたいという意図があるのだろうし、キャンプ前のニュースのない時期の話題作りで、新聞が過剰に大きく取り上げた、という面もあるのかもしれない。だから、別に大騒ぎするような話ではないのだが、実は私は、この記事を何度も何度も食い入るように見たのである。読んだのではなく、見た。
 サングラスにウインドブレーカー姿のダルビッシュの写真が大きく掲載されている。なんと、左で投げているのだ。写真キャプションには「左投げでもビシビシとキャッチボールを行うダルビッシュ」とある。写真を見る限り、スリークオーターからサイドスロー気味。うらやましい!
 何がって? 左でも投げられることが。
 ここでいったん、ダルビッシュから話題を変える。

 最近聞いた、大好きな話がある。
 主人公は外木場義郎さんである。広島カープが初優勝を飾ったときの大エース。ノーヒットノーラン3回、うち1回は完全試合。ピュンと左足をはね上げて、グワッと投げ込む。球種はストレートとカーブだけ。ツンとしたプライドが全身を覆っている。まさに投手らしい投手だった。
 ただし、75年の初優勝のシーズンの無理がたたったか、肩を痛めた。79年に引退 。プロ初勝利をノーヒットノーランで飾ったとき、試合後「なんなら、もう一回やりましょうか」と言ったとか、投手らしいエピソードに事欠かない人だ。

 その外木場が引退後、2軍コーチとして若手とキャッチボールをしていた。肩が痛くて投げられないはずなのに、誰にも捕れないようなボールを投げていた、というのである。種を明かせば、往年の快速球ではない。激しく揺れて落ちる。ナックルである。
 この伝説は本当なんだろうか。
 昨年暮、東京カープ会の折に、川口和久氏に聞いてみた。いわずと知れた、かつてのカープの左腕エース(もちろん、巨人でも投げた。今年のキャンプ では巨人の臨時コーチも務めるそうだ )。

 川口氏も入団当初、2軍で外木場のボールを見たそうだ。彼は、手を左右に大きく振りながら、こう言った。
「すごかったですよ。キッキッと(手を横に往復させて)30センチくらい横にボールが変化するんだから。ホントだよ。誰も捕れませんでしたよ。もし当時、レッドソックスのウェイクフィールド(ナックルボールの名手)が今みたいに日本でも有名だったら、絶対、引退後にアメリカに行ってますよ。あれより全然すごかったもん」

 外木場という投手は、生涯、自分が打たれるかもしれない、と考えたことはなかっただろうと思う。現役生活の晩年に打たれたのは肩が痛くて思うように投げられなかっただけのことで、肩さえちゃんとしていれば、王貞治だろうと誰だろうと、オレが打たれるはずはない。虚勢でもなんでもなく、心の底からそう考えていたに違いない。それが、彼の投手としての在り方である。
 2軍のコーチを務めながら、公式戦では封印していたナックルを投げ続けた。それは、すでに誰も自分を打てないことを1軍のマウンドで証明することができなくなっても、それでも自分は打たれないことを証明するためのボールだったのではないか。

 投手という存在は二種類に分類される。「打たれるかもしれない」というところから逆算して、ではどうすれば抑えられるかと考えるか、あるいは、投げ方さえ間違えなければ自分のボールは決して打たれないと考えるところから思考を開始するか。通常、後者として投手人生をスタートさせ、どこかの段階で(高校野球とか、プロ入りとか)、前者に転向する。
 外木場は生涯、後者であり続けた数少ない例だろう。だからこそ、肩がぼろぼろになって引退してなお、打てない(正確には誰も捕れない)ボールを投げようとした。確実に言えるのは、そこに自らの存在証明が託されていた、ということだ。

 昔、一人の速球派投手がいた。彼もまた、自分のストレートは誰にも打てない、と思っていた。しかし、外木場とは違って、実際の実力は、2軍でなんとか通用するレベルだった。そして彼もまた、外木場と同じように、肩を痛める。もはや再起不能、野球を断念するしかない。その時彼は何をやったか。左投げの練習を始めたのである。それが実は後の○○という有名な左腕投手である、というような立派な話ではない。左腕から投げたボールは、捕手まで届くのがやっとだった……。

 ここでダルビッシュに戻る。彼がなぜ左投げをしたのかは知らない。ただ、ここには外木場のナックルと同じ香りがある。
 どんなことがあっても、自分は最終的には誰にも打たれない投手である、そう信じるに足る裏付けを、おそらくは無意識のうちに、遊びで投げた左投げに託しているのではないか。注目すべきは、ダルビッシュが「左腕でもビシビシ」投げていることだ。もしかしたら、並の左腕投手よりよほど才能があるのかもしれない。そこが、件の2軍投手とは決定的に違う。

 別に、彼が右がダメになったら左で投げる気なのだろうと言っているのではない。外木場やダルビッシュのふるまいから人が受け取るのは、おそらくは、投手としてのプライド、誇り、といわれるものだろう。「誰にも打たれない」という誇りには、奥がある。単純に一つのことを成し遂げたら終わりなのではなく、さらに、その次の段階まで用意されている、ということである。
 この誇りの構造は、大事なのではないか。

 たとえば、ダルビッシュが最多勝を取ったとする。あるいは、日本シリーズでMVPに輝いたとする。だれでも、大きな達成感に包まれるだろう。普通なら、大きな仕事をなしとげて、虚脱感にとらわれるかもしれない。ただ、彼の誇りは、自然にその次の目標を目指すのではないか。あわてて付け加えるが、次はメジャー、なんてことを言っているのではない。日本シリーズをワールドシリーズに置き換えても、事情は全く変わらない。あるいは、彼が今のところメジャーに興味がないという主旨の発言をするのも、このことと関係するかもしれない。

 外木場やダルビッシュの風貌を思い浮かべながら、このような投手としての在り方を「つんとした誇り」とでも、名付けたい。そして、「つんとした誇り」のある投手は、美しい。フォームも球筋もまちがいなく美しい。
 スポーツの世界では、よく、「夢」という言葉が重宝される。「夢にむかってつき進め」「努力すれば夢は必ずかなう」――。たとえば、プロ野球選手が高校球児に技術指導の講演会をする試みは、たしか、「夢のむこうへ」と題されていた(ちなみにこのイベント自体はじつにすばらしいものだ。プロ選手たちが一生懸命教えてくれる技術論は、それが野球の基本、根本にふれるものだけに、非常に参考になる)。

 ただ、この「夢」というのが、わからない。たとえば、高校球児が「甲子園の全国制覇」という夢を抱いたとすれば、原理的に、その夢はどんなに努力しても、全国でたった1校の野球部員にしか実現しない。ほとんどの場合、夢はかなわない。青少年にうそを教えちゃいけません。
 感じ悪い言い方は、やめましょう。「夢」という言葉で指されているのは、多くの場合、人生の目標である。優勝する、プロに入る、最多勝をとる……。

 ここで、思考実験をしてみよう。ダルビッシュの夢はなんだろうか。彼は甲子園で敗退したとき、砂を持って帰らなかった。「僕の人生には関係ないものなんで」とコメントした。つまり、おそらく、全国優勝(したいとは思っただろうが)は、夢ではなかったはずなのである。これは、全国優勝を先の最多勝やMVPと置き換えても、事情は同じだろう。
 つまり、なにか遠くの方にある目標に直線的に向かっていってたどり着いたら、そこでゲーム終了、という構造になっていないのだ。

 最近放送された「カンブリア宮殿」(東京12チャンネル)という番組に、かのユニクロの総帥・柳井正氏(ファーストリテイリング会長兼社長)が出演していた。カリスマ経営者といわれるだけあってなかなか面白かったのだが、印象に残る発言があった。
「尽きない夢を持たないといけないんじゃないですか」
 これは、事態の本質を突いている。優勝も、最多勝も、MVPも、一回の夢である。単線的な一つの目標、1回の夢ではなく、夢が「尽きない」ことが肝要なのだ。
 ここに、外木場のナックルや、ダルビッシュの左投げを重ねてみたい、という誘惑にどうしてもかられる。尽きない夢を折り重ねて成り立った身体の在り方を、「誇り」と呼ぶのではないか。

 今季も、数多くの「つんとした誇り」に出会いたいと思う。
 たとえば、千葉ロッテの西岡剛。彗星のように現れて優勝に貢献した2005年は、本当に輝いていた。その後は、なにかプロの世界でひとつの夢を達成してしまったかのように、輝きが薄れつつある。つまり、彼は単線的な夢を達成してしまった存在にしか見えなくなったのである。しかし、今年は違うようだ。WBCのメンバーからはずされ(正確には、バックアップメンバーだが)、思うところがあったに違いない。今季、彼のプレーには、新たな誇りが宿るかもしれない。

 あるいは、ダルビッシュに叱られた中田翔。1年目は1軍にあがることさえできなかった。高校通算何十本とやらというプライドは引き裂かれた。しかし、大阪桐蔭高1年の夏の甲子園のように、たぶん自分にはどの投手も打てるな、という確信を1軍の打席で取り戻せれば、これまた、再びめったに出会えない誇りを身につけた打者になれるかもしれない。
 あるいは、ショートにコンバートされた中日の荒木雅博の守備はどうだろう。去年までのセカンドとはまた異質の誇りに出会えるかもしれない。
 そのような選手の出現を、今年もまた、刮目して待ちたいものだ。


上田哲之(うえだてつゆき)プロフィール
1955年、広島に生まれる。5歳のとき、広島市民球場で見た興津立雄のバッティングフォームに感動して以来の野球ファン。石神井ベースボールクラブ会長兼投手。現在は書籍編集者。
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