9歳で出会ったスノーボードの魅力にとりつかれ、18歳で世界選手権を制した青野令。略歴だけをみると、あたかも天才少年として注目を集めていたように思われるが、実際はそうではなかった。競技を始めた小学生から中学校へ上がったばかりの頃は同年代の選手と争う大会に出場しても、なかなか結果を残すことができなかった。
 当時を振り返って青野の父・伸之は語る。「競技会になると、なにかちぐはぐなすべりをしていました。それを見て、コイツは勝てないなと思いましたね。同じくらいの年の子にも普通に負けていましたから。大会で思い通りの滑りができないので、よくトイレにこもって1人で泣いていたようです。きっと悔しかったんでしょうね。しばらくしてトイレから出てきた時に、目が真っ赤ということが何度もありました」

弱かったメンタル

 大会で思ったような結果を残せなかった理由を、当時の日本代表コーチで、アクロス重信で青野を指導していた阿部幹博はこう分析する。

「令の場合は、他の子に比べてメンタルの部分で問題がありました。競技会で滑っていると、どうしても恐怖心が先に立ってしまう。つまりビビッてしまうんですね。これでは動きが小さくなって得点は伸びません。まず、これを克服しなければいけませんでした。
 もうひとつ、彼は精神的に繊細な部分があった。枕が変わっただけでも眠れないとご家族から聞いていました。そんなことでは遠征先での試合に勝つことはできません。これも解決しなければいけない問題でした」

 阿部はまず、恐怖心を取り除くために、難易度の高い技を習得させるのではなく、通常に飛ぶ、スタンダードエアの高さを出す練習を青野に課した。基礎となる技を磨くことで滑りに安定感を持たせようとしたのだ。

 滑りが変わったのは、その練習がきっかけだった。

「ある日の練習で令がエアを飛んだ。もちろんスタンダードエアです。本人はいつも通りに飛んだつもりだったと思います。しかしその時に タイミングが合い過ぎてしまい、周りの大人がビックリするくらいの大ジャンプをしたんです。これには本人も相当驚いたようで、滑り終えてから冗談交じりに『ちょっとチビったぁー』と話していました(笑)。
 しかし、それと同時に『でも、わかったーっ!!』とも言っていました。そこで何かを掴んだようです。そこからのびのびとしたジャンプをするようになった印象があります」

1時間の練習で集中

 阿部の指示した練習で恐怖心を克服した一方、厳しいトレーニングを行うことで、肉体面でもレベルアップを図っていった。その代表例が“耐乳酸トレーニング”だった。

 耐乳酸トレーニングとは、肉体の限界を超える負荷を与えることで、強力な筋肉を作っていく方法だ。98年長野五輪男子スピードスケート500m金メダリストの清水宏保が行っていた練習法としても有名である。科学的な裏づけのあるこの練習を、青野を始めとしたアクロスのジュニア年代の選手たちは小学生の頃から取り組んできた。

 夏場にはヒンズースクワットを1000回以上こなしたこともあった。ヒザが笑うくらいまで筋肉をいじめ続け、筋力を上げることに努めた。「おそらく、当時の代表選手よりも彼らのほうが厳しいトレーニングをしていた」と阿部は話す。

 さらに、中学生に上がった頃からは練習の方法を変えた。青野は次のように振り返る。「それまで時間をかけて練習していたのですが、短時間で集中して練習するようにしたんです。もう時間がないというくらいの方が調子がいい。集中力が切れると怪我にも繋がるので、あまり長く練習しないことにしました。時間は大体1時間くらいですね。大きなゲレンデに行った時などは別ですが、通常の練習では今でも短い時間で集中するようにしています」

 様々な練習の成果が現れはじめ、青野の滑りは少しずつ変化していった。段々と競技会でも満足のいく成績を収めるようになっていく。04年、05年には同年代の選手と競う国内最大の大会、JOCジュニアオリンピックで2連覇を果たすまでに成長していた。

 しかし、同年代との大会では結果を残すようになっても、世代を超えた戦いとなると、なかなか思うような成績はついてこなかった。中学2年の時から推薦枠で転戦し始めた世界の舞台、W杯では予選を突破することもできない状況が続いた。

 やっとの思いでW杯予選を初めて突破できたのは、高校生になってから。05−06シーズン、アメリカ・レイクプラシッドで行われた大会で、自身初の決勝進出を果たした。ところが、ここで不運が彼を襲う。決勝直前の公式練習中に怪我をしてしまったのだ。膝の靭帯を傷め、結局、決勝の舞台に上がることはできなかった。せっかくのチャンスも負傷により掴み損ねてしまったのだ。このままシーズンは終了。彼にとって世界で活躍する日はまだ先のように思われた。

 ところが迎えた翌06−07シーズン、彼は想像だにしない大きな成果を残すことになる。それまで決勝の舞台に立つことすらなかった選手が一気に頂点に登り詰めたのだ。

(第3回へ続く)

青野令(あおの・りょう)プロフィール>
1990年5月15日、愛媛県松山市生まれ。9歳からスノーボードを始め、04、05年JOCジュニアオリンピックハーフパイプ優勝。06年、キスマーク杯優勝。07年2月W杯富良野大会で初優勝、さらに2勝を重ね、06−07年W杯年間総合王者の座に就く。今季は1月のW杯郡上大会で優勝し、W杯通算6勝目を挙げ、韓国で行われた世界選手権ではスノーボード競技初の優勝。10年バンクーバーオリンピックではメダル獲得の期待がかかる。松山城南高3年。164センチ、57キロ。





(大山暁生)
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