第6回「二宮清純講演ダイジェスト~明治安田 広島支社主催~」
「ひとに健康を、まちに元気を。」をコンセプトに、様々な活動を展開している明治安田生命保険相互会社とのタイアップ企画です。当コーナーでは、明治安田関連の活動レポートをお届け致します。
『勝者の思考法』
2024年7月4日、明治安田広島支社主催によるVIP後援者会に、当サイト編集長の二宮清純が招かれ、『勝者の思考法』とういテーマで90分ほど講演いたしました。今回、その講演ダイジェスト版をお届け致します。
日本のプロ野球で「市民球団」と呼ばれるのは、広島カープです。それには深い理由があります。
1949年12月、広島カープはプロ野球で唯一、親会社を持たない球団として誕生しました、被爆地に希望を与えることを目的につくられた球団でもありました。
あまり知られていないことですが、地元の広島大学は国立大学でありながら、設立経費は国費ではなく、3分の1が県費、3分の2が寄付金で賄われ、県内、国内、海外から広く募金が集められました。
また、これらの募金の他にも、特別募金として「広島おどり特別公演」、「広島県教育宝くじ」そして驚くことに、「プロ野球公式試合」の収入の一部が設立資金に割り当てられました。
菅真城さんの論文には、1949年に広島で開催された阪神タイガース対東急フライヤーズの試合の事業計画書も掲載されており、その事業計画書では、124万円の入場収入のうち20万円が募金に当てられる予定になっていました。
実際の観客動員などを調べた菅さんの試算によれば、「広島大学設立募金にも20万円以上がまわされた可能性がある」と見積もられています。
この広島大学の設立資金募集のためにプロ野球の公式戦を開催するなかで、広島県の財界人たちから「野球王国」広島にプロ球団を設立してはどうかという声が上がったのです。
広島大学とカープの関連もさることながら、カープが市民球団とみなされるようになったひとつの契機と考えられる樽募金の背景には、すでに広島大学の設立を契機とした募金の前例が県内に存在していたことがあげられます。こうした寄付行為は、敗戦国に資金がなく、「平和文化」を守るために戦火によって破壊された広島の県民と市民が「血涙を絞る」ことによって成立したのです。
原爆の悲惨な記憶を後世に伝え、慰霊の意を表し、恒久の平和を祈る「ピースナイター」は、2008年に始まり、被爆地の球団・広島カープにとって特別な試合です。
このように広島市民、県民はカープを通じて平和への祈りを捧げているのです。
現サッカー日本代表監督の森保一さんも、広島(サンフレッチェ広島)で育てられた選手、監督のひとりです。長崎市で少年時代を過ごした森保さんは、「僕を育ててくれた長崎と広島は、いずれも被爆都市。僕は平和への思いがより強い」と私に話してくれたことがあります。
その森保さんをサンフレッチェに入団させたのがJリーグ史上最初のゼネラルマネジャー(GM)と言われる今西和男さんです。
今西さんが長崎日大高時代の森保さんを見た時の印象は「速くない、強くない、うまくない」というものでした。
しかし、ひとつ目を奪われるものがありました。それは森保選手が下を向かず、常に前を向いてプレーしていることでした。
今西さんは、私にこう言いました。
「これはグラウンドの関係もあったと思うんです。ヨーロッパはどこも芝生だが、当時の日本のグラウンドは、ほとんどがクレー(土)だった。クレーだと、ボールが不規則にはねることが多く、どうしても下ばかり見てしまう。これでは周囲を見渡せる、視野の広い選手は出てきません。
ところが森保はクレーのグラウンドであるにもかかわらず、常に前を向いてプレーしていた。だから状況が変わっても、瞬時に対応することができた。まずはボールを止める技術。そして周囲を見て展開できる技術。これが彼には備わっていたんです。そのことをオフトに告げると、“ミスターイマニシ、確かにその通りだよ!”と。“あの子はボールを持った時の姿勢がいい。顔が上がっていて、ルック・アラウンド。何という子なんだ?”と。そこからオフトは森保に興味を持ち始めたんです」
1992年に日本代表監督に就任したハンス・オフトさんは、日本サッカーを近代化させた人物として知られています。“ドーハの悲劇”により94年アメリカW杯出場こそ果たせませんでしたが、彼が日本サッカーに果たした役割は大変大きいものがありました。
森保さんは今でも今西さんとオフトさんを“心の師”“育ての親”として崇めています。
今西イズム、オフトイズムは、森保さんにしっかりと受け継がれ、2022年カタールW杯では、ドイツとスペインを破り、世界中を驚かせました。広島の地が育てた森保監督。森保ジャパンの挑戦は、いよいよ佳境に入ります。