1984年11月20日、運命の日がやってきた。 第20回新人選手選択会議。駒沢大学4年の河野博文は太田誠監督とともに、じっとモニターを見つめていた。会見場となった会議室には多くの報道陣が詰め掛けていた。実はこの時、河野の心は不安にかられていた。
「こんなにも大勢の人が自分の指名を信じて集まってきているというのに……。もし、指名されなかったらどうなるんだろう」
考えるだけで恐ろしかった。しかし、会議が始まってすぐにそれは杞憂に終わった。
「1巡目、日本ハムファイターズ、河野博文、22歳、駒沢大学」
 ホッと一息つく暇もなく、一斉にカメラのフラッシュが襲いかかってきた。必死で眩しさをこらえながらも、河野は安堵の表情を浮かべていた。
「本音を言えば、セ・リーグの球団に行きたいなとは思っていました。当時、パ・リーグの試合はほとんどテレビ中継されていなかったせいもあって、セ・リーグの方が人気がありましたからね。でも、会議当日は入れるならどこでもいいという気持ちでしたよ。それに日本ハムにはいい印象をもっていました。前年には大学の先輩の白井一幸さんが入団していましたし、3年前の81年にはリーグ優勝していましたから」

 入団後、河野はそれほど苦にすることなく、プロの世界に入っていった。それでも驚かされたこともある。サインプレーの複雑さだ。プロ野球では何度も同じピッチャー、バッターと対戦するため、単調なサインではすぐにわかってしまう。そこで、一つのプレーにいくつものパターンが用意されているのだ。
「大学時代はサインなんてほとんどなかった。やっぱりプロとアマチュアは違うなと思いましたね」

 もちろん、それで河野のピッチングが崩れることはなかった。順調にキャンプを終えた河野は、1年目から開幕1軍入り、しかも先発ローテーションの一角に抜擢された。記念すべきデビュー戦は4月10日、大阪球場で行なわれた南海戦だった。「緊張しましたよ」と河野。それもそのはずだ。観客のほんどが熱烈な南海ファン。敵の新米選手にあちこちから野次が飛ばされるのは、致し方のないことだった。普段、あまり周囲が気にならない河野もさすがにこの時ばかりは野次が耳に入り、なかなか集中することができなかった。
「慣れてきたら野次も気にならなくなったんですけど、結局3点くらいかな、失点して5回で降板させられました。その試合は僕には勝ち負けがつかず、初勝利はお預けとなってしまいました」
 2試合目もまた白星はつかなかった。 “1勝”が遠く感じた。

 3試合目の登板となった5月1日、相手はその年からリーグ4連覇を達成し、うち3度の日本一に輝いている、当時最も勢いのある西武だった。先発はその年、台湾からやってきた郭泰源と河野との新人同士の対戦となった。予想通りの投手戦となり、ロースコアでの展開となったが、MAX156キロを誇る剛腕から日本ハム打線は3点をもぎ取った。郭泰源から3点を奪うことはそうたやすいことではない。打線の奮起に何とか応えたいと、河野も力の限り投げ続けた。得点ボードにきれいに「0」が並んでいくのを見て、いい気分にならないはずはなかったが、決して最後まで気を抜かなかった。当時チームを率いていた高田繁監督(現東京ヤクルト監督)も、彼の意気込みを感じていたのだろう。西武の打撃力をもってすれば3点は決してセーフティリードではなかったはずだが、指揮官はルーキーにその試合を預けたのだ。

 結局、西武打線から快音を聞くことなく、ゲームセット。河野は3度目の正直でプロ初勝利を挙げた。
「どんな感じだったかって? そりゃもう嬉しいの一言ですよ。なんたって待ちに待った1勝目ですからね。しかも黄金時代の西武から完封勝ちでしょう。もう、メチャメチャ嬉しかったですよ!」
 いつもは温和な河野が珍しく興奮していた。11年間の日本ハム時代で最も嬉しかったという1勝に、河野は少しの間、浸っているようだった。

 河野は1年目、8勝(13敗)を挙げた。幸先いいスタートを切ったはずだったが、プロはそれほど甘くはなかった。翌年は1勝(10敗)にとどまった。3年目、4勝(6敗)を挙げて復活の兆しを見せると、4年目には6勝5敗9セーブをマークし、最優秀防御率(2.38)のタイトルに輝いた。しかし、90年にはアキレス腱断裂。リハビリで1年を棒に振った。ケガというケガをしたことのなかった河野にとっては、あまりにもショックな出来事だったに違いない。

 再起をかけた翌年のシーズンは0勝2敗に終わった。しかし、92年以降は徐々に調子を取り戻していく。93年、7勝3敗、94年には1年目以来の自身最多となる8勝(10敗)を挙げ、完全復活したことを証明してみせた。

 そして95年8月3日、1軍登録1500日目を迎えた河野はFA資格を取得した。その約3カ月後、河野にとって最大の転機が訪れることになる。

(最終回へつづく)


<河野博文(こうの・ひろふみ)プロフィール>
1962年4月28日、高知県幡多郡大月町生まれ。明徳高(現・明徳義塾高)から駒澤大学へ進学。大学3年時には日米大学野球選手権で14奪三振の大会新記録を樹立し、最優秀投手に選ばれた。85年、ドラフト1位で日本ハムに入団し、1年目から先発ローテーション入りを果たす。88年には最優秀防御率防御率(2.38)のタイトルを獲得。96年にFA権を行使し、巨人へ移籍。8月には14試合に登板し、4勝0敗1セーブ、防御率1.86の好成績を挙げ、月間MVPに輝くなど、貴重な中継ぎとしてリーグ優勝の立役者となった。99年オフに戦力外通告を受け、ロッテへ移籍。翌年、現役を引退した。2008年より独立リーグのBCリーグ・群馬ダイヤモンドペガサスのコーチを務めている。172センチ、85キロ。左投左打。

(斎藤寿子)





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