1995年オフ、河野博文は一つの決断を下した。FA宣言をし、11年間着た日本ハムのユニホームを脱ぐことにしたのだ。移籍先は巨人だった。少年時代の河野が憧れ、夢見てきた「GIANTS」のユニホームに袖を通した河野は既に33歳。しかし、やはり感慨深いものがあった。当時、日本ハムの合宿所「勇翔寮」と練習グラウンドは現在の鎌ヶ谷ではなく、川崎市の多摩川沿いにあった。対岸には河野が少年時代から憧れを頂いていた巨人の選手寮とジャイアンツ球場があった。しかも日本ハムのホーム球場は後楽園(88年からは東京ドーム)だ。この環境で河野が巨人への憧れの気持ちを募らせていたとしても何ら不思議ではなかった。
「ぜひ、うちに来てほしい」
 長嶋茂雄監督から言われたのはそれだけだった。しかし、河野にはそれで十分だった。1995年11月27日、河野は巨人と正式に契約を交わした。
 入団後、当時は12球団一とも言われた巨人の人気の高さに河野は改めて驚かされた。彼らの周りにはいつも多くの報道陣とファンが殺到していた。
「入ったばかりの頃は環境に慣れるのに苦労しました。パ・リーグにいたこともあって、セ・リーグに馴染みがなかったこともありましたし、その中でもジャイアンツはまだまだ特別な存在でしたから。報道陣の多さにも圧倒されましたけど、キャンプでさえもスタンドがいっぱいになるなんて、僕には信じられなかった。もう、ビックリしましたよ」

 とはいえ、同じ野球をする者同士が打ち解けあうのに、それほど時間はかからなかった。特に投手陣とはよく飲みに行ったという。
「今、テレビによく出ていますけど、槇原(寛巳)はよくしゃべるし、面白いですよ。(桑田)真澄はあまり飲まなかったですね。ワインくらいかな。意外に宮本(和知)はあまり飲めないんですよ」
―― 一番強かったのは?
「僕ですね(笑)。ビールでも焼酎でも何でもいけちゃう。パ・リーグの方が酒飲みが多かったけど、それでもやっぱり僕が一番強かったんじゃないかな」

 河野の酒の強さは大学時代から有名だった。
「大学時代、よく先輩に飲まされました。当時はとにかく量が半端じゃなかった。僕なんか酒が得意なほうではないので、もう大変でした。でも、河野は本当に強かったですよ。彼が潰れた姿を一度も見たことがなかったですから」
 大学時代の同級生、大倉孝一もこう証言するほどだ。

 翌日、登板日であっても河野は躊躇することなく飲みに行ったというから、お酒に対する強さは半端ではない。
「よく朝まで飲んでましたよ。昔はそういう選手、多かったと思いますしね。巨人ってほとんどがナイターだから少々遅くても大丈夫なんですよ(笑)。で、翌日ランニングで汗をかけば、ピッチングに影響することなんてないんです。でも、若い選手とはあまり行かなかったですね。だいたいすぐに帰ってしまう選手が多い。悪いことじゃないけど、お酒でコミュニケーションとれることって結構あるじゃないですか。僕らの世代から見たら、ちょっと、寂しいですよね」

 メークドラマの瞬間

 さて、河野が移籍した当時の巨人の監督は周知の通り、ミスターこと長嶋茂雄。王貞治とともに河野の少年時代のスーパースターだ。自分からはなかなかしゃべりかけることはできなかったが、監督の方から気軽にしゃべりかけてきてくれたという。そんなときは、やはり嬉しかった。河野は長嶋から“ゲンちゃん”という愛称で呼ばれていた。4年間の在籍中、一度も“河野”と呼ばれたことがない。河野いわく、長嶋監督は“ゲンちゃん”が彼の本名だと思い込んでいるのだそうだ。

「長嶋監督は本当に不思議な方ですよ。よく選手の名前を間違えると言いますけど、あれ、本当ですから(笑)。僕もありました。次の回からオマエが(マウンドに)行くよ、って言われて用意していたんですよ。それでいざ出て行こうと思ったら、違うピッチャーの名前がアナウンスされたんです。いや、もうビックリしましたよ。そのピッチャー、自分が投げるなんて思っていないですから肩なんかつくってないわけです。ルールでは一度球審に交代を告げたら、訂正はできないんです。でも、相手の監督さんが『いいから、いいから』って。それで無事投げられたんですけどね」

 巨人に移籍した1年目、河野は野球人生で最高のシーズンを送った。その年、長嶋巨人のスタートは最悪だった。開幕戦こそ白星で飾ったものの、4月には5連敗、6月は6連敗を喫するなどチーム状態は低迷していた。7月6日には首位広島とのゲーム差は11.5にまで広がっていた。しかし7月中旬以降、投手陣の踏ん張りで白星を重ね、8月半ばには首位争いをするにまで盛り返した。なかでも河野の台頭はチームにとって大きかった。8月には14試合に登板し、4勝1S、防御率1.86をマークし、月間MVPにも輝いた。中継ぎは先発や抑えに比べて、貢献度があまり表面化されない。それだけに河野が月間MVPを獲得したことは、他の中継ぎ投手に希望を与えるものだったに違いない。

 河野のほか、阿波野秀幸に川口和久と左のリリーバーの活躍もあって、巨人はグングンと順位を上げていった。先発の宮本も含め、いつしか彼らには“レフティーズ”という愛称がつけられ、優勝のキーマンに挙げられていた。
「僕はもう34歳でしたから、やっぱり夏場はきつかったですね。最後の10月なんかは6連投とかありましたから。でも、体の疲れよりも投げる楽しみの方が大きかった。もうね、休みたいなんて思わなかったですよ。投げたいって気持ちのほうが全然強かったですから」

 そして1996年10月6日、中日との首位直接対決を制した巨人は“メークドラマ”を完成させた。河野はその日、6回からマウンドに上がり1回1/3を投げて1安打に抑えた。優勝の瞬間、河野も他の選手とともにベンチを飛び出して行った。ファンの歓声とともに長嶋監督を胴上げし、その後に行なわれたビールかけでは長嶋監督にもビールをかけた。ずっと心待ちにしていた優勝は河野が想像する以上に“最高”だった。そのシーズン、河野は初めて最優秀中継ぎ投手のタイトルを獲得した。河野の名は全国のお茶の間に広がった。

 新たな野球人生

 しかし、その後はヒザの故障もあり、納得のいくシーズンを送れずにいた。そして優勝から3年後の1999年オフ、河野は戦力外通告を言い渡された。
「10月の終わりくらいだったかな。ジャイアンツ球場に行ったら、フロントから呼び出しがかかったんです。もうその時点でわかっていました。というのも、年齢もありましたし、ヒザの故障もあってその年はあまり活躍できなかったですからね」

 とはいうものの、自分ではまだ投げられるという気持ちが強かった。河野はロッテのトライアウトを受け、見事合格する。しかし、29試合に登板したが、ヒザの痛みは激しさを増すばかりだった。河野はその年限りで現役を引退することを決意した。プロ入り16年目のことだった。

 引退後、河野はほとんど公に出ることはなかった。久々に彼の名前が新聞に載ったのは2007年12月1日のことだ。独立リーグ「ベースボール・チャレンジ・リーグ」(BCリーグ)に新たに創設された群馬ダイヤモンドペガサスの投手コーチに就任したのだ。1年目の昨年、群馬は後期に地区優勝し、プレイオフで前期優勝の新潟アルビレックスBCに1つも星を落とすことなく連勝し、上信越地区を制覇した。最後は北陸地区覇者の富山サンダーバーズとの戦いに敗れ、リーグ優勝こそならなかったが、創設1年目のチームにとっては十分すぎるほどの結果を残した。

「最初のキャンプで選手を見た時は、どうなることかと思ったけど、やっぱり1年間やると全然違いますね。将来、楽しみな選手もたくさんいますよ」
 河野の今の夢は自分の球団からNPBの、しかも1軍で活躍するような選手を出すこと。そのために自分ができることは何でもしてやりたいという。

 指導者としての人生を歩み始めた今、河野にとって野球とはどんな存在なのだろうか。
「ううん、どうでしょうかね。仕事と言えば仕事なのかな。でも一つ言えることは、今後も野球のない生活は考えられないってこと。僕にはこれしかないですからね」
 やはり河野博文にはユニホーム姿が一番似合う。寡黙だが、その顔には野球人としての自信とプライドがしっかりと刻まれていた。

(おわり)

<河野博文(こうの・ひろふみ)プロフィール>
1962年4月28日、高知県幡多郡大月町生まれ。明徳高(現・明徳義塾高)から駒澤大学へ進学。大学3年時には日米大学野球選手権で14奪三振の大会新記録を樹立し、最優秀投手に選ばれた。85年、ドラフト1位で日本ハムに入団し、1年目から先発ローテーション入りを果たす。88年には最優秀防御率防御率(2.38)のタイトルを獲得。96年にFA権を行使し、巨人へ移籍。8月には14試合に登板し、4勝0敗1セーブ、防御率1.86の好成績を挙げ、月間MVPに輝くなど、貴重な中継ぎとしてリーグ優勝の立役者となった。99年オフに戦力外通告を受け、ロッテへ移籍。翌年、現役を引退した。2008年より独立リーグのBCリーグ・群馬ダイヤモンドペガサスのコーチを務めている。172センチ、85キロ。左投左打。

(斎藤寿子)





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