岩村明憲が二盗を敢行した時、あなたはどう感じただろうか――。
 もちろん、WBC決勝、日本対韓国戦10回表の、あの有名なイチローの打席の話である。
 たしかに、「へぇ、思い切ったことするなぁ」とは感じた。それは覚えている。実は、そこから先が面白いのだが、なぜか「これで敬遠だな」とは思わなかったのである。
 説明の必要もないかもしれないが、一応シーンを振り返っておこう。
 3月24日(日本時間)、ロサンゼルスのドジャースタジアムで行なわれたWBC決勝戦は、先発・岩隈久志の好投もあり、日本が優勢に試合をすすめた。3−2と1点リードで迎えた9回裏、クローザーとして起用されたダルビッシュ有が2死1、2塁からタイムリーを打たれて同点。延長にもつれこんだ。

 10回表。日本は内川聖一ヒット、稲葉篤紀送りバント、岩村ヒット、川崎宗則ショートフライで、2死1、3塁。打席にイチローという場面を迎えたのである。結果は、皆様よくご存知の通り、イチローが韓国のクローザー林昌勇から、優勝を決定づけるセンター前2点タイムリーを放った。これが効いて、日本は5−3で勝利したのでした。おめでとう!
 岩村はこのイチローの打席、0−1からの2球目に盗塁した。その結果、1塁が空いた。このようなもはや1点も許されない絶体絶命のピンチでは、イチローを敬遠し、満塁にして、2番中島裕之と勝負するのが普通ではないか。試合後、韓国では、そのような議論が沸騰したそうだ。

 そして、これもご存知のことと思うが、韓国の金寅植監督は試合後、際どいコースを投げて、うまくいかなければ歩かせる、という指示を出したが、経験の少ない控え捕手だったため、ベンチと捕手でサインが混乱した、と証言している。
 テレビ中継では、林昌勇が1球目を投じた時点で(つまり盗塁の前に)、解説の佐々木主浩氏が「勝負してくれたら助かりますね」とコメントしている。つまり、ここは当然、敬遠だと考えたわけである。この言葉には、クローザーとして、あまたの修羅場をくぐり抜けてきた佐々木氏の経験からくる勝負カンが詰め込まれている。
 ただし、見ている限り、林昌勇には敬遠の気配は全くなかったし、打席のイチローにも、敬遠の可能性を考えているようなそぶりは皆無だった。これは、なぜなのだろうか。

 この打席の8球を振り返っておこう。
?外角低目、シュート ボール 0−1
?内角低目 ストレート ストライク 1−1
(岩村、二盗)
?外角低目 ストレート ファウル 2−1
?外角低目 ストレート ファウル 2−1
?低目 ワンバウンドに近いシンカー ファウル 2−1
?外角高目(ウエスト気味) ストレート ファウル 2−1
?外角大きく外れる シュート ボール 2−2
?真ん中ややインコース寄りのシンカー センター前ヒット

 1球目はボールだし、2球目はインローに見事に決まったストレート。この2球は、投手も打者も様子を見ながら、いわば五分の立ち合いといったところだろうか。
 3球目で勝負のテンションが一気に高まる。林昌勇は、渾身の力をこめて、アウトローにストレートを投げ込む。やや浮いたが、イチロー、猛然と振りにいく。球威も十分、スイングも鋭い。2−1と追い込んだ。
 4球目、再びアウトローへ渾身のストレートで勝負。捕手の構えよりやや中に入ったように見えたが、素晴しいボールの伸びで、ファウル。

 ここまでストレート系を4球続けて2−1と追い込んでいる。次は低目にボールになる変化球。打っても凡打だろうし、見逃されてもまだ2−2である。おそらく、バッテリーはそのように考えた。あえていえば、この時点では、仮に2ボールになったとして、その後2−3までいけば敬遠、という選択肢もありえたのではあるまいか。
 ところが、このワンバウンドになりそうな変化球を、猛然とスイングしてファウル。つまり、イチローはどんな球でも振って、必ずヒットにするという覚悟をあらわにしたのである。

 冒頭で述べたように、この場面を見ながら、なぜか「敬遠」ということが頭に浮かんでこなかった理由は、おそらく、この推移にある。第一の分岐点は3球目だ。岩村が盗塁して一塁が空いた次の球。バッテリーはあらゆる投球技術の基本であるアウトローのストレートを選択した。これが外れたら、敬遠だったかもしれない。しかし、見事なストレートでファウルをとり、2−1と追い込んだ。だから勝負! ただし、コーナーいっぱいを突いて。

 第二の分岐点は5球目。普通なら見逃すはずの完全なボール球をファウルにしたせいで、依然、カウントは2−1のままだったことだ。だから、バッテリーには、もう一球ボール球を投げて誘うという戦略が残されていた。というより、その選択肢が目の前に大きく横たわっていた。
 だから、6球目は、ウエスト気味のストレートだった。通常、考えられる結果は2つ。見逃すか、空振りかのはずである。なにしろ、この時のストレートは威力十分だったのだから。

 ところが、イチローはこのボールも敢然と振りにいく。敬遠など微塵も考えていないだけではない。必ずヒットになると確信したかのような、いわば迷いのないスイングである。この6球目のファウルでは、少なくともこの打席に関する限り、彼は10割打者になっていたのではないか。野球に10割打者などありえるはずないが、この打席だけ、いわば5球目と6球目によって、ロサンゼルスに10割打者が誕生していたのである。
 事実上、この6球目のファウルで、勝負はついたのではないか。7球目の明らかに外にはずれるボールはさすがに見逃し、運命の8球目。おそらくは、外角低目、はずれてもいいくらいギリギリを狙った変化球は、10割打者に見入られたように、中に入った――。

 なぜ、投手にも打者にも、そして私のような見物人にも、いわば当然の策である「敬遠」が現実的に思えなかったのか。ましてや、監督は指示を出したと証言しているのに。その真相は、もちろんわからない。ただ、この8球を子細に振り返ると、その各々のボールと打者のスイングの推移が、必然的に勝負という選択を生み出したように思えてならない。そして、あえてその直接原因をあげれば、それは5球目と6球目のイチローのスイングにあったのではないだろうか。

 ともあれ、WBCは日本の連覇という、我々にとっては最高の結果で幕を閉じた。よかった、よかった……のではあるが、やはり日本野球に課題は残ったと言いたい。
 もちろん、韓国に3勝2敗と勝ち越し、キューバに2連勝、アメリカにも勝っての優勝である。その成績には、ケチのつけようがない。岩隈、ダルビッシュ、松坂大輔をはじめとする投手陣が、世界最高のレベルにあることも証明した。しかし、打線はどうだっただろうか。
 つなぎの4番もいいだろう、ヒットと機動力をからめて点を取る技術もいいかもしれない。しかし、たとえば韓国やキューバの打線には、ひとつ間違えばホームラン、という迫力があった。そうさせなかったのは、日本の投手陣が優れていたからである。日本代表の打線に、その種の迫力が宿っていたとは言いにくい。
 つまり、日本野球は、次なる世界大会に向けて、もう少し長打力を磨くべきではないか。

 その意味で最も印象に残っているのは、韓国との4試合目である。既に準決勝進出が決まったうえでの、1、2位決定戦だから、勝敗には大きな意味はなかった。しかし、0−1から、内川が打ったレフトへの同点ソロは素晴しい当たりだった。
 このホームランが証明しているのは、長打力を生み出すものが、必ずしもメジャーリーガー的なパワーとは限らないということである。キューバの選手など、決して大柄で筋肉モリモリではないのに、スイングで遠くへ飛ばしている。内川のこの打席も、ステップするタイミングが完全に合って、大きな飛距離を生んでいる。むしろ、足りないのはパワーではなく、技術で遠くへ飛ばそうとする、選手個々の意識ではないか。

 急に話題を変えて恐縮だが、センバツには菊池雄星(花巻東)、今村猛(清峰)という左右の素晴しい投手が出現した。
 では、打者で、すごいと思える選手はいただろうか。残念ながら見当たらなかった。あえていえば、投手である清峰の今村君のスイングだろうか。
 高校野球にダルビッシュや岩隈や松坂に続く可能性を秘めた投手が出現するのと、少なくとも同程度の頻度で、松井秀喜レベルの可能性をもつ打者にも出てきて欲しい。
 そうなったとき、日本野球は本当に強いといえるのではないか。


上田哲之(うえだてつゆき)プロフィール
1955年、広島に生まれる。5歳のとき、広島市民球場で見た興津立雄のバッティングフォームに感動して以来の野球ファン。石神井ベースボールクラブ会長兼投手。現在は書籍編集者。
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