人は何のために野球を見るのか。別になにやら高尚な議論を始めようというのではありません。要は楽しいから見る。気持ちがいいから見る。ひいきのチームが勝ったら人生が幸せになるから見る。人間、やっぱり幸せにならないとね。そういう様々なことを含めて、習慣になっているから見る。
 見る快感の中で、最もポピュラーなのは特大ホームランだろう。例えば、球場で左中間の中段まで届くようなホームランを目撃すると、しばらくその大きな放物線の軌跡が脳裏を離れなくなる。もっと言えば、そういう放物線の記憶が積み重なると、人生の財産になる。
 もちろん、他にも野球を見る快楽はたくさんある。二遊間の鮮やかなゲッツープレーしかり、イチローのようなレーザービームしかり。言い出したらキリがない。したがって、あくまで個人的な趣味ということになるが、大ホームランに負けないくらい快感を得られるものに、投手の美しいストレートがある。

 今季、新たにそういう投手が登場した。
 田中将大(東北楽天)である。
 今季の田中の活躍は先刻ご承知でしょう。4月29日までに4試合に登板して、4連続完投勝利。しかも2完封! 見事としかいいようがない。成績も立派だが、投げているボールがまた素晴しい。

 4月29日の北海道日本ハム戦を例にとろう。1回表の立ち上がりを見れば十分である(この試合後の登録抹消については後述)。
 1番・田中賢介に、ストレート、ストレート、ストレート、ストレート。この4球目をライト前に運ばれる。2番・糸井嘉男は初球のストレートをバント失敗。1死1塁。で、迎える打者は3番・稲葉篤紀。そう、WBCで日本代表の4番を務めたあの稲葉である。
 ?外角低目 ストレート ストライク
 ?内角低目 ストレート ストライク
 ?外角高目 ストレート ボール
 ?外角低目 ストレート ファウル
 ?外角低目 ストレート ストライク バッターアウトォ。150キロ!
 4球目までの球速はあえて書かなかったが、146〜149キロである。球速ももちろんだが、ストレートの姿がいい。

 三振に取った5球目など、左打者のアウトローいっぱいにビシーッと伸びていく。物理学的に言ってボールが伸びる(浮き上がる)ことはありません、とはよく指摘される常識である。しかし、物理学がどっちに向いていようと、伸びているものは伸びている(あ、こいつアホや、とか思わないこと)。
 田中の人差し指と中指から放たれたボールは左打者のアウトロー目がけて進み、確かに打者の手元では地面と並行な軌道になって捕手のミットにおさまったのである。捕手・嶋基宏のミットはこれを受けて微動だにせず。
 これですよ。これだけで私の2009年4月29日は幸せになった。安上がりな男でございます。ビール1本でも酔えるが、ま、それはさておき……。

 お気づきと思うが、1番・田中の初球から3番・稲葉を三振に取るまで、10球連続ストレートである。
 もちろん、田中の代名詞といえばスライダー。
 この日、序盤をストレート主体で攻めた田中は、5回からスライダー勝負に出始める。たとえば、5回表2死の場面。打者はヒメネス。
 カウント0−1となって、スライダー。空振り。ヒメネスの巨体のベルトの上辺りから足元まで鋭く落ちる。そりゃ当たらんだろうと思ったら、1−1からさらにもう1球スライダー。ヒメネス、同じく空振り。全くかすりもせず、思わず打席の土を蹴り上げていた。

 田中自身は、3安打完封を飾った4月22日の千葉ロッテ戦後、こう言っている。
「去年までだととらえられていた真っすぐが、今年はファウルになる」(スポーツニッポン、4月23日付)
 起きていることは容易に想像がつく。プロ入り後、2年間の研鑽の結果、おそらく去年までよりも体の前でボールを放すことができるようになったのである。しかも、放す最後の瞬間まで右手中指と人差し指がしなやかにボールにくっついている。接触時間が長い分、体の前でピシッとボールを切ることができる。その結果、打者の手元で伸びる美しいストレートになる。

 これはかつて、福岡ソフトバンクホークスの和田毅から聞いた言葉だが、「投手のストレートは打者のバットの上を通るべきである」。和田が球速の割に奪三振率が高いのもこのストレートの質によるのだが、田中のストレートもまさに「バットの上を通る」。
 ただし、去年まではまだ、いわばバットの下を通るような質のストレートが多かったように記憶する。だから、ストレートは球速はあってもあくまで見せ球で、勝負となると抜群のキレをもつスライダーに頼るしかなかった。
 それが今や、稲葉をストレート5球続けて三振に取れるのだ。去年から今年の練習で、何かつかんだに相違ない。

 ところで去年から今年というと、北京オリンピックとWBCがあった。田中に関してはこの二つの大会がうまく作用したのではないか。
 まず、北京は大惨敗を喫したわけで、彼自身も思うところがあっただろう。そして今季はWBCに出場するため、早めに仕上げねばならなかった。
 ちなみに、WBCの3月開催には問題が多過ぎる。大会後、シーズンに入って松坂大輔、城島健司、イチローと軒並み疲れからの体調不良に苦しんだ。栗原健太の故障も途中招集という思わぬストレスと無縁ではあるまい。岩隈久志が7回で自ら降板して、救援陣が逆転され、野村克也監督の不興を買ったようだが、これとて肩、ヒジの疲労と無関係ではあるまい。
 4月29日の試合後、田中も右肩の張りを訴えて登録を抹消された。もちろん、4連続完投の疲れもあるだろう。しかし、シーズン前のWBCが遠因になっていることは間違いあるまい。

 翻って、今メジャーリーグ中継を見ると、メジャーの選手たちは3月とは別人のような高いコンディションで戦っている。野球の真剣勝負をするのに、3月という季節はやはり選手にかかる負担が大きすぎる。WBCは3月ではなく、7月のオールスターブレイクを一カ月に延長して、シーズン中の開催にするべきである。
 ただし、開幕からの4連続完投勝利についていえば、田中には日程が幸いした面もあるだろう。早く仕上げたわりには、WBCではあまり登板機会がなく、トップコンディションでシーズンに入れたのだ。

 ところで、田中に関して、興味深いことがある。彼の考え方である。何かのテレビ番組で田中を特集していたのを見たことがある(番組名を失念。すみません)。インタビューの最後の方で、将来の夢は? みたいなことを聞かれて、確かこのような主旨の発言をしていた。
「ピッチャーなんて、明日はどうなるかわからない。明日、ヒジがふっ飛んだら終わりなんですから。だから、将来ではなく、今やれることをやる」
 この「明日、ヒジがふっ飛ぶかもしれない」という可能性を、しっかり受け入れたうえで、投手として生きているところがいい。

 先の「スポーツニッポン」紙(4月23日付)は、彼の発言としてこうも伝えている。
「僕は最後までマウンドにいて、チームの勝敗を背負っていたいタイプ。それで壊れてもいいと思っている」
 投手が、常に壊れる可能性を背負った存在だと認識していることは、この発言でも明らかだ。「勝敗を背負いたい」とはエースとして完投し、試合を制したいという意味だろう。
 ここからうかがえるのは、現在主流となっているメジャー式の、先発投手は100球、投球過多は投手生命をおびやかすので避けねばならないという思想とは、また別の種類の思想の萌芽である。

 あわてて付け加えるが、このことと右肩疲労をケアして休むことは話が別である。なにもむやみに投げまくって故障してもいいということではない。投手は当然ながら肩、ヒジに細心の注意を払わなければならない。ただし、肩、ヒジは、ときにいくら休んでも治療しても治らないような決定的な壊れ方をすることがある。その覚悟を日常的に隠し持っている投手であるか否かでは、おのずからボールの質、あえていえば美に違いが出る。

 ダルビッシュ有は、メジャー行きに消極的だという。その理由は、先発投手は100球で降板するのではなく、完投するべきものだという信念によるとも伝えられる。
 田中を見る限り、まだまだ進化していく余地はありそうだ。できることならば、メジャーの思想を体現する方向ではなく、今の彼の思想をこそ、つきつめていってほしい。その進化の先には、かつてなく魅力的な投手像があるはずだ。
 ダルビッシュ有と田中将大は、間違いなく日本球界を背負って立つ二大エースである。彼らが二人ながら、メジャーとは異質の考え方を持っていることを貴重だと思いたい。
 日本野球オリジナルの、大エース像を世界に示してほしいものだ。


上田哲之(うえだてつゆき)プロフィール
1955年、広島に生まれる。5歳のとき、広島市民球場で見た興津立雄のバッティングフォームに感動して以来の野球ファン。石神井ベースボールクラブ会長兼投手。現在は書籍編集者。
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