菅沼は4歳からサッカーを始めた。「小学校の時からトップ下が多かったですね。中盤より前。今とほとんど変わりません」。点を獲ることが何より好きだった少年は、柏ジュニアユース、ユースとカテゴリーを上げるに従ってメキメキと力をつけた。ユースの1年目には早くもトップチームの練習に呼ばれるレベルになっていた。
 そしてユース2年目を迎えた2002年、17歳でJリーグ初出場を果たす。10月26日、鳥取でのヴィッセル神戸戦。雨がぱらつく中、ラスト7分間、ピッチに立った。レイソル史上最年少デビューだった。「頭が真っ白でした。ボールしか見ていなかった」。この年は2試合、Jの舞台を経験した。

 ミノルーニーと呼ばれて

 さらに翌年、待望の初ゴールが生まれる。03年11月15日、相手は同じく神戸。後半途中から流れを変えるべく、ベンチより送り込まれた。「チームが良くない状態だったので、なんとかしようと。当たって砕けろみたいな気持ちでした」。1−2とビハインドで迎えた後半39分、DF永田充(現新潟)のパスにしっかりと反応。左足でゴールネットを揺らした。「実は、その前に1本外していたんですよ。だから、“あー、よかった”って感じ(笑)」。18歳5カ月での得点はクラブ史上最年少記録。レイソルに新星誕生を印象づけた。

「僕らからみれば、ミノルはスーパースターでしたよ」
 ユースでともにプレーする選手たちにとって、菅沼は憧れの存在だった。ちょうど同時期に、イングランド代表で最年少デビューと最年少ゴールをマークしたFWウェイン・ルーニーにひっかけて、チームメイトからは“ミノルーニー”と呼ばれるようになった。「最初はイヤでしたね。“そんなことないッス。オレは必死です”って言いたかったですけど(笑)」。ユースを卒業後、そのままトップチームとプロ契約。「ある程度、できるかもって手ごたえはありました」。本人もJリーガーとしての活躍を夢見て、新たなシーズンを迎えた。

 ところが――。生え抜きのスター候補は、ピッチで輝く場所を失ってしまう。当時の柏には日本代表FWとして売り出し中だった玉田圭司(現名古屋)がエースストライカーとして君臨していた。控えFWには矢野貴章(現新潟)もいた。にもかかわらず、クラブの成績は低迷。監督もシーズン途中で交代になり、まずはJ1に生き残ることが目下の課題になっていた。当然、若手を試合の中で育てるような余裕は生まれにくい。ルーキーの出場機会は自然となくなっていった。

「もうちょい、もうちょい頑張れば、試合に出られると自分にハッパをかけてやっていました。でも、チーム事情でトップとサテライトのメンバーが分けられて、なかなか思うように練習もできなくて……」
 トップチームが主体となる練習に割って入ることもままならかった。豊富なトレーニングで自らの技術に磨きをかけていた菅沼にとって、それは試合出場がない以前の苦しさだった。「もっとやらないと。もっとやらしてくれ」。感情はもう抑えられないところにきていた。

 そして思いは行動になった。「レベルアップしたい。勉強するために出してください」。公式戦4試合の出場にとどまったプロ1年目を終え、クラブに移籍を申し出た。イメージしていた移籍先はJ2クラブ。ところが、フロントから返ってきた回答は予想外のものだった。

 ブラジル人はハートで戦う

 ECヴィトーリア。柏と提携関係にあるブラジル2部のクラブだった。
「“エッ!?”ってビックリしましたよ(笑)。なんといっても地球の反対ですからね」
 担当者からは「3日で返事をくれ」と告げられ、一応、3日間、考えた。しかし、どう考えても、本人曰く「答えはもう決まっていた」。太平洋を飛び越え、サッカーの王国でチャレンジするしか可能性を広げる道はなかったのだ。

 異国でのプレーにはさまざまな困難がつきまとう。それは菅沼も例外ではなかった。早速、登録の問題で1カ月間、試合出場が認められないアクシデントに見舞われた。言葉の壁もあった。何より受け入れ先の首脳陣や選手からしてみれば、日本から来た実績のない若者だ。「最初はナメられていましたよ」。自分を認めさせるには結果を残すしかなかった。

 だからこそ人一倍ゴールにこだわった。「ブラジルは点を獲れば周囲の見方が変わってくる。本当に力の世界なんです」。点をとってナンボ。シンプルといえばシンプルな評価基準は、自身のサッカー観に大きな影響を及ぼした。長所である思い切りの良さとゴールへの執着心は、柏から約18,000キロ離れた土地で育まれたものだ。

「試合に出ているヤツは勝つことしか考えていない。点を獲ることしか考えていない。うまいヘタというより、まずはここの部分、ハートで戦っているんです」
 自分の胸を指差しながら、菅沼はブラジルの選手たちの印象を語った。「精神的にも肉体的にもタフになりましたよ」。トップチームの1つ下のカテゴリーで、数多くの試合を経験した。ブラジルに行かなかったら、今の自分はなかったかもしれない。振り返れば、そう思えるほどの濃密な1年を過ごした。

 帰国後のダブルショック

 だが、成長を手土産に帰国した20歳を待っていたのは厳しい現実だった。同年、柏はJ1で16位に沈み、J2・ヴァンフォーレ甲府との入れ替え戦にまわっていた。日本に戻ったその足でスタンドから見つめたのはJ2降格という事実。クラブにとって初めて味わう屈辱だった。

「よし、やってやる!」
 柏のJ1復帰に力を尽くそうと思った矢先、さらなるショックが襲う。期限付き移籍の打診を受けたのだ。移籍先はJ2参入を決めたばかりの愛媛FC。柏とは戦力差があるとはいえ、リーグ戦ではライバルになるクラブだ。フロントからは、こう勧められた。「愛媛のほうが出番がある。成長して帰ってこい」

 自然とこみあげてきたのは悔しさだった。
「やるせなかった。本当にやるせなかった。やるせない気持ちが大きかったですよ」
 それでもブラジルに渡った時と同様、「答えはもう決まっていた」。残された道は気持ちを切り替え、四国に行くことしかなかった。「ここでダメだったら、(契約を)切られるなと感じていましたよ」。もしかしたら片道切符になるかもしれない搭乗券をもって、菅沼は柏から愛媛へと飛んだ。それは2006年1月のことだった。

(第3回につづく)
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<菅沼実(すがぬま・みのる)プロフィール>
1985年5月16日、埼玉県岩槻市(現さいたま市岩槻区)出身。ポジションはMF、FW。4歳からサッカーを始め、柏ジュニアユースを経て、ユース所属の02年に17歳5カ月の若さでJリーグデビュー。翌年には初ゴールも記録する。04年、トップチームとプロ契約。05年にブラジルリーグ2部のECヴィトーリアへ期限付き移籍。06年にはJ昇格直後の愛媛FCに移籍し、45試合で11得点をあげ、結果を残す。07年に柏に復帰後は開幕4試合で4得点をあげ、北京五輪予選に臨むU-22日本代表にも選ばれた。08年は30試合10ゴールとJ1で自己最高の成績をあげている。これまでの公式戦通算成績は134試合31得点、J1通算68試合17得点(2008シーズン終了時)。173センチ、69キロ。







(石田洋之)
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