騎手会長として精力的に高知競馬のPR活動をしていた鷹野に1つのニュースが飛び込んできたのは2003年10月のこと。そのニュースは、これまで考えたこともなかった中央競馬への道を意識させるものだった。兵庫・園田競馬所属の赤木高太郎騎手が中央競馬騎手試験の1次試験を突破したのだ。
 この年は同じく園田競馬の小牧太も1次試験を突破している。しかし小牧はいわゆる『20勝ルール』の適用を受け1次試験を免除された形だったが、赤木の1次突破は学科試験を通過しての合格だった。2次試験が実施されたのは、翌04年2月。実技中心の2次を2名とも突破し、晴れて中央競馬の騎手となった。

 赤木騎手の合格というニュースは、鷹野にとって大きなターニングポイントとなった。

「これまで絶対に無理だと思っていた中央で騎乗することが、彼の合格で不可能ではないと感じました」

 鷹野にとって1次試験合格者第1号が赤木だったことも大きかった。00年の豪州遠征の際、妻・美穂が様々な助言を受けていた人物が、園田競馬に所属しながら豪州へ遠征経験のあった赤木の妻だったのだ。

「ニュースを聞いてからすぐに奥様に連絡して、資料と教科書を取り寄せました」。美穂は当時を振り返る。

「赤木さんが合格したことで、地方競馬の騎手が中央で騎乗することは誰にでも可能だということになったんです。だから、主人にも可能性があるんだと信じていました」

 ただ、当の鷹野は中央へ移籍することに、最初は懐疑的だった。

「赤木騎手は合格前に何レースか中央に遠征していました。しかし、僕には中央での騎乗経験が1回もない。移籍しても新人騎手のように減量特典があるわけでもない。もちろんツテなどどこにもありませんでした。どこのオジサンだかわからない騎手に乗せてくれるはずもない。だから『(中央への)移籍は無理だ』と話していました」

「そうは言っても女房からは『そんなことは(中央の)試験に受かってから言って!』と一蹴されてしまいましたが(苦笑)」

 もちろん中央で騎乗したいという想いは心の奥に存在した。美穂を経由して赤木からの助言を受けた鷹野は10月の中央競馬試験に向けて試験勉強を始めた。平日は朝の調教を行い、昼から4、5時間勉強し、週末に開催される高知競馬で騎乗した。20年ぶりの座学は、地方の競馬学校時代のものと異なり、数字など1から勉強し直さなければならなかった。「さすがに年齢もあるのか、覚えたことをすぐに忘れてしまうんですよね(笑)。なかなか頭に入ってこなくて始めのうちは苦労しました」。

 突如巻き起こったハルウララブーム

 この頃、高知競馬では1つの“事件”が起こった。世に言う「ハルウララブーム」である。03年6月、地元・高知新聞で彼女の連敗記録が報じられると、全国紙をはじめとした様々なメディアから取り上げられ、高知競馬場はこれまでにない注目を集めた。競馬ファン以外にもその名を知られるようになった彼女は稀代のアイドルホースとなっていく。

 ブームがピークを迎えたのは04年3月22日。高知競馬における唯一の交流重賞・黒船賞(G?)が行われる日だった。しかし、来場客のほとんどが注目したのは第10レース。105連敗中のハルウララに、黒船賞に参戦するため高知を訪れていた武豊が騎乗したのだ。このレースを観戦するため、来場した観客は1万3千人あまり。高知競馬史上、過去最高記録だった。人が殺到したスタンドでは入場制限が敷かれ、「ハルウララ単勝馬券専用窓口」まで設置された。

 普段は売上減少に悩む高知競馬にとってハルウララは救世主だったのだが、鷹野から見たこの風景は異様なものだった。

「とにかくお客さんの多さにビックリしました。潜在的にファンというのはいるんだなと感じました。しかしそれも、ハルウララが出走する時だけの話。他の日はまた元の競馬場に戻ってしまう。お客さんの目当てはあくまでハルウララだったんですよね」

 熱狂はあっという間の出来事だった。この日、1日の売上は8億円を越えたが、次のハルウララ出走日の売上は1日で7100万円。一気に10分の1にまで落ち込んだ。彼女が出走する日以外となると、さらに半分近くの売上に落ち込んでいた。ハルウララ効果で高知競馬は一時的には黒字になったものの、すぐに赤字に転落。これ以上の赤字は競馬場の廃止に繋がるため、賞金や経費を削減しながらどうにか経営を存続させる状態になっていた。高知競馬の賞金は全盛期の3分の1程度にまで激減していた。

  サンエムサリダで実感した違い

 04年8月、着々と騎手試験への勉強をしていた鷹野に1つの騎乗依頼が舞い込んだ。高知競馬では数少ない交流競走での依頼。中央競馬未勝利のサンエムサリダに乗ることになったのだ。

「関西の佐藤正雄先生の厩舎にいた馬でした。競馬場に依頼があって『リーディング上位騎手を紹介して欲しい』ということで、僕のところに話が来ました。高知でのレースなら、普段から乗っている僕らに地の利がありますからね。

 まず、馬に跨った時から衝撃的でした。パワーとフットワークが全然違う。『中央の馬とはこういうものか』と。ボディーからエンジンから全て、車でいえばカローラとクラウンくらい違う。乗っていても全く次元が違いました」

 未勝利馬ということもあり6番人気だったサンエムサリダを鷹野は見事な手綱さばきで1着に導く。このレースでは2着も中央からの遠征馬だった。後日行われた交流戦でも佐藤厩舎の馬で勝ち鞍を挙げる。「佐藤先生の馬で2勝したことが、中央への想いをさらに大きくしてくれました」。

 1日5時間近くの勉強をこなし、高知競馬で調教やレースに騎乗する。受験勉強に取り組む鷹野の姿を見て、美穂はどのように感じていたのか。
「ちょうどその時期は子供たちの受験期と重なっていたので、受験生が一人増えたという感じでした。子供が勉強しながら『お父さんの勉強はどうなん?』と聞いたりして、お互い励ましあいながら取り組んでいたと思います」

 04年10月、初めて中央競馬騎手試験を受験する日がやってきた。赤木の助言や日々の勉強の成果があったのか、筆記試験はことのほか手応えが良かった。「これならいけるかも」。学校を後にする足取りは軽かった。

 しかし2日目、厳しい現実に直面した。中央の騎手試験では筆記の他に口頭試問が課せられる。この試験が非常に難しいものだった。

「口頭試問はどんなことが聞かれるかわからないですし、教科書以外のところからも質問されるんです。中央競馬のことを本当にわかっていないと答えられないし、海外競馬についても聞かれました。教科書でしか勉強をしてこなかったので、ダメでしたね」

 1回目の試験を振り返って鷹野はこう語った。結果は不合格。現実は甘くない。そう感じた。翌05年にも2回目の受験に挑んだ。筆記試験は前回同様にある程度、答えることができた。しかし前回同様、口頭試問で苦戦する。中央の壁は予想していた以上に厳しいものだった。

 いくつもの縁が生んだ調教師との出会い

 試験勉強に取り組む最中、鷹野は一人の調教師を紹介された。茨城県美浦トレーニングセンターに厩舎を構える二ノ宮敬宇だった。

 二ノ宮調教師といえば、98年ジャパンカップ(G?)や99年サンクルー大賞(仏G?)を制し、世界最高峰のレースである凱旋門賞で2着という輝かしい戦績を収めたエルコンドルパサーを管理した中央競馬を代表するトップトレーナーである。

 鷹野と二ノ宮を引き寄せたのも、00年の豪州遠征と妻の存在だった。4人の騎手をはじめとした22人の遠征メンバーの中に、JRA獣医永田廣がいた。この永田は二ノ宮厩舎に出入りし、エルコンドルパサーを担当、二ノ宮とは長い付き合いがあった。その永田が美穂の大学時代の同級生を指導していた縁もあり、永田を介して二ノ宮を紹介された。

 さらに、美穂の同級生で北海道の牧場を経営していた人物がおり、その牧場は二ノ宮が函館に赴く際、よく顔を出していた牧場だった。様々な縁から鷹野は二ノ宮とのつながりを持つことになる。

「二ノ宮先生と聞けば、まずエルコンドルパサーが思い浮かびました。オーストラリアで知り合った永田先生や現地でコーディネートしてくださった方々から『二ノ宮先生は素晴らしい方、あの人なら間違いない』と教えてくださいました。初めてお会いしたのは1回目の試験の後だったと思います。最初は挨拶をする程度でした」

 中央競馬からみても地方競馬に対して何か策を講じなければいけない時期に入っていた。二ノ宮は鷹野を紹介された経緯をこう語る。

「今から3年くらい前に鷹野さんを紹介されたんです。その頃は地方のジョッキーが中央に挑戦してくることが増えている時期でした。ただ、中央の壁というのはどうしても厚い。年間20勝できるのは、ほんの一握りのトップジョッキーだけです。

 地方競馬が疲弊してきている今、中央でも人材を受け入れなければいけないという話が持ち上がってきていました。しかし、中央競馬にも競馬学校がありますから、完全に開放することは到底できない。厩舎関係者は競馬学校に入りなおすということもできるけれど、騎手という仕事にそういう機会はまずない。だから僕は、鷹野さんのような外から入ってくる人間に対しても協力できることがあれば、何かやりたいと思っていたんです」

 二ノ宮調教師という閉ざされた世界だけでなく、開かれた中央競馬を目指した調教師を紹介されたことが、鷹野にとって幸運だった。
 
「実際、鷹野さんに初めて会った時、非常に真面目で素晴らしい人なので、協力しようということになったんです。そこから彼との付き合いが始まりました」

 鷹野にとって、二ノ宮との出会いは非常に大きな経験となった。

「試験勉強をしていた時、実際に二ノ宮厩舎の調教に騎乗させていただく機会がありました。初めてトレセンに行って中央馬の調教に跨った。今までの経験とはなにもかもが違いました。

 まず馬の数が違う。高知では田んぼのあぜ道を歩くかのように調教に向かいますが、美浦トレセンの中はたくさんの競走馬がいて、まるで大都市のスクランブル交差点を歩いているようでした。また、調教のパターンがいくつもあり、各厩舎でやり方も様々です。地方だとどの馬に対しても1つのパターンしかありませんでしたから」

 二ノ宮からは騎手試験のアドバイスも受けた。「とにかく『今までのような教科書だけの勉強ではダメだよ。沢山の人に会わなければいけない。同じことをしていてはダメだ』と言ってくださいました。そこから牧場を回り始めたりしたんです」

 しかし、鷹野にとって不運なことが起こる。3回目の受験となった06年から騎手試験の傾向が一変したのだ。過去問中心の問題から、これまでとは全く違う傾向の問題が数多く出題されるようになった。鷹野はこの試験で、過去のような手応えを得ることはできなかった。「これはもう、難しいんじゃないか……」。鷹野は、これまでにない感情を持ったという。

 この頃になると、高知競馬場で騎乗することにも魅力を感じなくなっていた。「毎回同じようなコースで、同じ馬に乗ってレースに出る。もちろん2000勝もさせてもらった競馬場ですから、いつまでも乗っていたいという気持ちもありましたが、ワクワクすることがなくなってしまった。今思えば、心が折れ始めていました」

 中央の騎手試験を3回失敗し、高知での騎乗も魅力を感じない。鷹野は次の道を探ることとなる。それは“調教師転身”という選択肢だ。

 諦めかけた中央への道が開かれたヒント

 地方競馬で調教師試験を受けるためには、20日間の研修を事前に受講しなければいけない。この研修に参加した鷹野は、来年度の試験を受験し調教師になることを決意していた。

 だが、転機というものはどこにあるかわからないもの。この研修に参加したことで、中央の騎手への道が大きく開かれることとなる。

「この時に、騎手試験の口頭試問で聞かれるようなことを沢山勉強させてもらったんです。調教師となると、競馬に関する様々な知識が必要となる。まさにこれが、口頭試問で問われる内容でした」

 研修中に声をかけてくれる関係者もいた。「受講しているときも『まだ乗れるんだったら、今年も受けてみれば』といってくださる方もいました。たしかに馬に乗ることは問題ないし、体重もまだまだ大丈夫。地方の調教師試験の前に、騎手試験があるので、今年でラストチャンスと思って受けることにしました」

 調教師試験への研修が実施されたのは7月。10月に行われる騎手試験まであと3カ月。これまでで最も短い勉強期間となった。しかし、ラストチャンスにかけた鷹野の集中力とこれまでに培ってきた経験が、短い時間でも試験勉強をはかどらせた。

 4回目の受験に向かう際、美穂は鷹野の口から意外な言葉を聞いた。

「これまで弱音を吐いたことがなかったのに、試験の前に『今までありがとう』とか言い出したんです。本人はこれで最後の試験という覚悟があったのかもしれません。私は中央に挑戦しているのだから、受かるまで何度でも受験すればいいと思っていたんですけどね(笑)」

 千葉県白井市にある競馬学校で実施された騎手試験。今回は1次試験の筆記と口頭試問でこれまでになく手応えがよかった。調教師の研修と3年間の積み重ねで、口頭試問も無難に答えることができた。「これで、やっと越えられたかな」。鷹野は密かに思った。

 1次試験から数日後、鷹野に1次試験合格の報が届いた。
「神様がまだ乗れと言っているのかな(笑)」。
 調教師転身の計画はしばらく先に持ち越されることとなった。

 夢の舞台へあと一歩のところまで来た鷹野に、思いがけない試練が降りかかったのは07年暮れのことだった。

(第4回につづく)
>>第1回はこちら
>>第2回はこちら
>>最終回はこちら

<鷹野宏史(たかの・ひろふみ)プロフィール>
1964年10月4日、高知県高知市生まれ。17歳で高知競馬場からデビュー。85年、初のリーディングを獲得、90年には2度目のリーディングジョッキーとなる。05年に高知競馬史上2人目の2000勝を達成。同05年から中央競馬騎手試験を受験し、08年2月、4度目の受験で合格。43歳で晴れてJRA騎手となる。地方通算14345戦2190勝(高知競馬歴代2位)、中央通算197戦4勝(09年5月4日現在)。160センチ、49キロ。美浦・二ノ宮敬宇厩舎所属。







(大山暁生)
◎バックナンバーはこちらから