中央競馬2次試験を2カ月後に控えた07年大晦日。鷹野は高知競馬で落馬負傷し左足くるぶしを骨折してしまう。本来ならば完治するのに3カ月はかかる重症だ。くるぶしは馬に騎乗する際、曲げ伸ばしをするため負担がかかりやすい。「これはまずい」。試験まで時間がない中、鷹野は焦りを感じた。
「せっかく苦労して1次試験を通ったのに、実技試験である2次で落ちるわけにはいきませんから。2次試験で特に対策をしなければいけなかったのは障害飛越です。地方競馬時代は障害を飛ぶことはなかったので、競馬学校の時以来、25年ぶりに障害を飛ばなければいけませんでした。本当は1月に茨城県美浦村にある乗馬クラブで特訓をしようと考えていたのですが、このケガで中止になってしまって……」

 負傷したと言っても試験は待ってくれない。2月に行われる2次試験まで鷹野は静養に充て、ケガの回復を待った。痛みがなくなるまでには至らなかったが、テーピングで患部を固め、痛み止めの薬を処方して騎乗が可能になったのは1月の下旬。骨折から1カ月しか経っていなかった。鷹野の意地が早期での騎乗を可能にさせた。

「障害飛越に関しては、1カ月で完成させようとしたものを2日間の練習で習得しました。乗馬クラブの方がポイントを押さえて指導してくださったので、どうにか間に合いました。本当に感謝しています。馬を飛ばせること自体は難しくないのですが、やはりコツが必要なので。この2日間がなければ、試験には絶対に受かりませんでした」

 迎えた2月中旬、2次試験の日。鷹野の他にも競馬学校騎手過程を修了し1次試験を合格した3名の生徒と、南関東・大井競馬のトップジョッキー内田博幸が20勝ルールの規定をクリアし試験に臨んだ。20名近くの地方ジョッキーが1次試験を受け、突破したのは鷹野1人だった。最大の懸案事項だった障害飛越では、1箇所で減点されたものの無事終了。他の試験も無難にこなし、鷹野の下に合格の報が届いたのは試験の数日後だった。

「電話でJRA職員の方から結果を教えていただきました。合格のときはとにかくホッとしましたね。一番喜んでくれたのは女房でしたね。連絡をもらってから、二ノ宮先生にすぐ報告させていただきました」

 夢の舞台に立つことができる感動は、移籍準備の忙しさにかき消された。中央競馬で年度が変わるのは3月1日。2次試験合格の知らせを受けてから、わずか10日しかなかった。「合格まで準備を全然していなかった(笑)」と鷹野。2週間後には高知から単身、茨城県・美浦トレーニングセンターでの生活に移らなければならなかったのだ。

 すべてが勉強だった移籍1年目

 08年3月、念願の中央競馬での騎手生活が始まった。騎手試験の受験に際してアドバイスを受けていた二ノ宮敬宇調教師の下で所属騎手となった。鷹野自身が二ノ宮厩舎への所属を希望し、二ノ宮が快諾した。鷹野が二ノ宮と初めて出会ってから3年が経っていた。

 中央競馬での騎手生活は多忙を極めた。これまで24年間在籍した高知競馬とは、馬の質や設備、調教方法、携わる仕事の範囲まで全てが違った。2000勝ジョッキーの鷹野であっても一から勉強しなおさなければならなかった。

「1日の段取りが全くわからなかったので、最初のうちは心労で痩せました。目が落ち込んでゲッソリしてしまって……。余裕がなかったんですね。一人で美浦にやってきて、2カ月後に妻が来たのですが、開口一番『どうしたの!?』って言われてしまいまして(笑)。調教にしても、騎乗するレースにしてもわからないことだらけでした。年末に負傷したくるぶしの状態がよくなかったこともあったかもしれません」

 ケガの影響や中央でのペースに乗れずに苦しんだこともあり、鷹野が移籍後初勝利を挙げたのは5月18日新潟競馬場第3レース3歳未勝利戦。二ノ宮厩舎のアンブロークンで待望の初勝利を挙げた。3月1日に移籍を果たしてから約2カ月、65戦目での初勝利だった。

「アンブロークンでは二ノ宮先生から大きなチャンスをいただいていました。1番人気の馬を差しきっての勝利でしたが、嬉しかったですね。高知でデビューして初めて勝った時くらい嬉しかった。1勝してやっとJRAのジョッキーになれたという感じがしました。地方で2000いくつも勝っていても、この1勝には勝てないですね。初勝利の時はこれから騎手人生が始まると思ったけど、この1勝で『JRAの騎手としてここから始まる』と思いました」

 二ノ宮や周りのジョッキーからも祝福され、やっと中央の騎手として認められた瞬間だった。

 鷹野が中央に移籍した08年度は先述の内田が破竹の快進撃を続け、G?2勝を含む123勝を挙げ関東リーディングに輝いた。また、新人騎手として武豊の年間最多勝記録を破った新星・三浦皇成もデビューした。この2人はJRAでは鷹野と同期になる。地方のトップジョッキーや脅威の新人騎手がデビューし、中央競馬での競争は激化の一途を辿っている。季節によっては、海外のトップジョッキーも短期免許を取得して参戦するため、競争は一層激しさを増す。

 地方競馬で厳しい競争を勝ち残ってきたとはいえ、中央は全く違う舞台。地方で多くの勝ち星を挙げている鷹野といえども騎乗数はなかなか伸びないでいる。所属厩舎の二ノ宮調教師は鷹野の現況についてこう話した。

「鷹野さんは中央競馬に入ってくることはできたけれど、中央のレースと地方のレースではペースも違うし、芝とダートの違いもある。地方から来て活躍しているアンカツさん(安藤勝己)やウチパクさん(内田博幸)はずっと中央で結果を残してきた人たちだから移籍してすぐでも馬が集まった。その点、鷹野さんは中央での騎乗がない。これはものすごく大きなハンデです。最初からうまくいくと僕自身は思っていないし、本人も思っていないでしょう。

 その中で中央で乗ってから1年が経ってみて、うちの厩舎だけでなく、他の厩舎の馬に乗る。これはレースだけでなく調教も含めてです。この世界はやはり、結果を残さなければいけません。いくらいいレースをしても、騎手は勝たなければいけない。だから、勝つためにはどうしたらいいかを長いサイクルで考えていかなければいけないでしょう」

 中央移籍以降、204戦して4勝の結果だった鷹野も二ノ宮と同意見だ。「なかなか乗り馬を確保することは難しいです。地方所属の頃から交流レースに乗っていれば、だんだんと中央の調教師の先生方や馬主さんにも顔を覚えてもらえますが、僕にはそれがなかった。中央競馬はパイが大きいけれども、それ以上に騎手の人数も多いですからね」。

 現状に焦りはないのか? 鷹野に質問を投げかけると、こんな答えが返ってきた。

「最初は毎日必死にやってきたけど、最近は1鞍を楽しむようにしています。騎乗数が少ないので高知の頃と1鞍の重みが違う。騎乗が少ないことに最初は苦しみましたが、1レースを大事に集中して乗るようにしています。もちろん、レースが少ないことに慣れてはいけませんが、最近は嫌な気持ちはありません」

 鷹野の目はまっすぐ前を向いていた。一時は騎手を引退することも考えていた男が、必死にたどり着いた夢の舞台。そこで塞ぎこんでいるわけにはいかないのだ。

 30勝をクリアし、G?の舞台へ

「これからの目標は次の1勝ですかね。そんなに高望みはできませんから(笑)」。鷹野は温和な表情で語ってくれた。「それとG?に騎乗できる30勝をクリアすること。ジョッキーはみんなG?や重賞に騎乗したいと思っています。しかも僕の場合、本来ならば来れなかったところに来ているわけですから、挑戦したい気持ちはなおさらです。そして、これからは悔いの残らないように、馬に乗れる限り乗り続けたいです」。

 さらに続けた。「二ノ宮厩舎の馬が活躍してほしい。仮に自分が騎乗していなくても、厩舎がいい成績を収めて入れば、いい馬が入ってきますし、そうなることで僕にもチャンスが回ってくる。二ノ宮厩舎にはクラシックに出走するような素質のある馬が毎年入ってきます。そういう馬たちにも自分が騎乗してみたいですね」。

“JRA騎手・鷹野宏史”の誕生を支えた妻・美穂は「ここまで歩みを進めて来れたのも、様々な人と出会えたおかげ」と感謝の気持ちを口にした。

「私は主人の背中を押すことしかできません。私の夢は“G?で騎乗する時、家族揃って競馬場に応援に行く“こと。以前、自分が観客として感動した東京競馬場で、主人が大レースに騎乗してくれたら最高です」

 現在、茨城県で一人暮らしをしている鷹野と高知から声援を送る美穂が口にした夢は同じ“G?への挑戦”だった。地方競馬から中央競馬へ移籍を果たした2000勝ジョッキーの夢の続きは、G?ファンファーレ鳴り響くターフへと向かっている。今年10月で45歳になる鷹野宏史の挑戦は、まだまだ終わらない。

(おわり)
>>第1回はこちら
>>第2回はこちら
>>第3回はこちら

<鷹野宏史(たかの・ひろふみ)プロフィール>
1964年10月4日、高知県高知市生まれ。17歳で高知競馬場からデビュー。85年、初のリーディングを獲得、90年には2度目のリーディングジョッキーとなる。05年に高知競馬史上2人目の2000勝を達成。同05年から中央競馬騎手試験を受験し、08年2月、4度目の受験で合格。43歳で晴れてJRA騎手となる。地方通算14345戦2190勝(高知競馬歴代2位)、中央通算204戦4勝(09年5月25日現在)。160センチ、49キロ。美浦・二ノ宮敬宇厩舎所属。







(大山暁生)
◎バックナンバーはこちらから