高橋尚子は18キロ付近でいきなりペースを上げ、15人近い集団を壊しにかかった。ついてきたのは市橋有里、リディア・シモン(ルーマニア)、キム・チャンオク(北朝鮮)、エスタ・ワンジロ(ケニア)の4人。しばらくしてキム、ワンジロの2人が遅れ、トップ集団は高橋、シモン、市橋の3人となった。

 しかし、難所といわれたアンザックブリッジの上り坂で高橋が再スパートをかけると、市橋は彼女の背中を見送るしかなかった。かくして29キロ過ぎからレースは高橋とシモンのマッチレースとなった。前を走る高橋に無言のプレッシャーをかけるかのように、シモンはライバルの背後に身を隠した。

 勝つ確率を1%でも高めるためには少しでもスパートのタイミングを遅くしたい。ギリギリまで高橋についていって、できれば競技場での勝負に持ち込みたい。シモンはこのようなシナリオを描いていたはずだ。

 もちろん、高橋がそれを知らないわけがない。高橋にすれば、早めに厄介な背後霊を振りほどき、ひとり旅の状況をつくりたい。自らの影を踏まれるレースとの決別のタイミングを高橋は慎重に見計らっていた。

 それが35キロだった。緩やかな上り坂を前に、高橋がサングラスを放り捨てた。それを合図に3度目のスパートをかけた。ついにシモンをバッサリと斬り捨てたのだ。

 レース後、師匠の小出義雄はこんな秘策を明かした。
「私たちね、32キロのところに宿舎をとってたの。ここで毎日、朝夕2回、32キロから37キロ地点の5キロをスパートする練習をしたんだ。“ここが勝負だよ、ここが勝負だよ”と言いながらね」

 あとでわかったことだが、高橋がサングラスを投げつけた相手は父親の良明さんだった。この地点に父親がいたことは、いったい何を意味するのか。要するにあのスパートは全て計算し尽くされたものだったのだ。

※このコーナーでは各スポーツの栄光の裏にどんな綿密な計画、作戦があったのかを二宮清純が迫ります。全編書き下ろしで毎週金曜日にお届けします。



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