1ラウンドでファッシオの動きをあらかた把握した長谷川は2ラウンドに入り、じわじわと間合いを詰め始める。
ボクシングのWBC世界バンタム級王者・長谷川穂積は日本人チャンピオンとしては歴代でも五指に入る名王者である。
ジャンボ鶴田は子供の頃から、ひとつの夢を抱いていた。日本代表としてオリンピックに出場することである。大学のバスケットボール部に入部した以上、その競技で日の丸のユニホームを着るのが現実的な目標だ。
2000年5月に他界したプロレスラーのジャンボ鶴田はミュンヘン五輪レスリング・グレコローマンスタイルの代表であった。
2001年暮れ、ソルトレイクでのワールドカップ。大菅小百合が日本人として初めて38秒の壁を破ったレースを岡崎はスタンドから見ていた。
「え゛っ!」という声がオーバルの空間を揺るがした。エに濁点である。ミクロの世界に生きる住人ならではの恐怖の叫び。間一髪のスタートを支える右足が後方にズルッと抜けてしまったのだ。
ブラッシーはカメラマンを見つけると、歯をヤスリで研いでみせた。私たちファンはその写真を見て、いつもこうやっているのだろうと震え上がった。
プロレス史上、最強(凶)のヒールは誰かと言えば、それは“吸血鬼”の異名で恐れられたフレッド・ブラッシーだろう。
韓国の怒涛の逆襲が始まった。まず後半39分、右サイドで粘った李基珩のファーサイドへのセンタリングを、FWの崔龍洙がつなぎ、最後は途中から入った徐正源が頭で叩き込み同点。
サッカー日本代表にとって、最大にして最強のライバルは韓国代表である。これまで何度、煮え湯を飲まされてきたことか……。数ある悔しい試合の中で、一番と言えば、これだろう。
1971年10月31日、東京・日大講堂。輪島にとっては一世一代の大勝負の舞台だ。 立ち上がり、ボッシはテクニシャンらしく、距離をとって慎重に輪島を攻めた。リーチの差はいかんともしがたかった。
ボクサーにとって最大のハンディキャップはリーチの短さである。長い槍と短い槍を持った人間が戦ったら、どちらが勝つか。余程のヘマをしない限り、前者が勝つだろう。それと同じ理屈である。
「松永君、キミにロス五輪全日本チームの監督をやってもらうことになった。いいね」。アマチュア野球のドンと呼ばれた日本野球連盟副会長・山本英一郎(故人)から電話がかかってきたのは五輪開幕の1カ月前だった。
まだ公開競技だったとはいえ、野球日本代表は一度だけ金メダルを獲得したことがある。1984年のロス五輪だ。この時は学生と社会人の混成チームだった。
この日、クルム伊達公子はひとつの作戦を立ててゲームに臨んだ。シュテフィ・グラフが得意とするフォアハンドを封じるというものである。そのため伊達はいったんグラフのオープン・スペースにストロークを返し、バックハンドでしか対応できないスペースを作っておいて、そこに精度の高いバックハンドでのクロスやフォアハンドでのダウン・ザ・ラインを狙い打った。
日本女子テニス界にあって、クルム伊達公子を超える選手は、未だにひとりも現れていない。数多くの名勝負の中でも、とりわけ印象に深いのが1996年4月28日、日本対ドイツのフェドカップ・ワールドグループIの1回戦でシュテフィ・グラフと繰り広げた死闘である。
高橋尚子は18キロ付近でいきなりペースを上げ、15人近い集団を壊しにかかった。ついてきたのは市橋有里、リディア・シモン(ルーマニア)、キム・チャンオク(北朝鮮)、エスタ・ワンジロ(ケニア)の4人。しばらくしてキム、ワンジロの2人が遅れ、トップ集団は高橋、シモン、市橋の3人となった。
トンネルをくぐると、そこには青空が広がっていた。春というより初夏を思わせる南半球の強い陽射しが、細身の日本人ランナーの凱旋を待っていた。
奈落の底で内藤大助は運命的な出会いを果たす。白井・具志堅ジムのトレーナー野木丈司だ。野木は高校時代、陸上部に所属していた。師は女子マラソンの名伯楽・小出義雄。
「3度目の正直」とはWBC世界フライ級チャンピオン内藤大助のためにあるような言葉だ。
試合前のミーティングで監督の野村克也は広島からやってきたばかりの小早川毅彦に、こんなアドバイスを送った。 「斎藤(雅樹)はワンスリーのカウントになると、決まって外角にヒュッと曲がるカーブを投げてくる。これを誰も打とうとせん」
4月29日に史上5人目となる監督通算1500勝を達成した野村克也が指揮を執ったゲームの中でも、とりわけ印象深いのが1997年の開幕ゲームだ。当時、野村はヤクルトで指揮を執っていた。