5月30日、元関脇・玉春日が大銀杏に別れを告げた。両国国技館で行われた引退、年寄楯山襲名披露大相撲。総合格闘家の桜庭和志をはじめ、約300人がまげにはさみを入れ、15年間の労をねぎらった。「みなさまに応援していただいたおかげで、長く相撲を続けることができました」。涙をこらえていた断髪式とはうって変わり、ファンに挨拶した時の晴れやかな表情がとても印象的だった。当サイトでは1999年の開設直後、「FORZA EHIME」コーナーで玉春日を特集している。あれから10年、その土俵人生と今後の夢に編集長・二宮清純が迫った。
(写真:師匠の片男波親方(元関脇・玉ノ富士)が止めばさみを入れる)
二宮: 15年の現役生活、お疲れ様でした。昨年の秋場所で引退を表明されて半年以上が経ちましたが、今の心境は?
楯山: ホッとした感じです。よく「また、相撲をとりたいと思うことはないですか?」と聞かれるのですが、まったくありません。もう自分のできることは全部やり切りました。自分の相撲人生を全うできて満足しています。

 ヒザの靭帯は切れたまま

二宮: 現役時代の後半はケガとの戦いでもありました。「ケガさえなければ……」といった後悔の念もないと?
楯山: ないですね。ケガをしたことでいろいろ見えてきたことも、学んだこともありました。今となってはケガもいい思い出です。

二宮: 一番つらかったケガは?
楯山: 右ヒザの前十字靱帯断裂と首のヘルニアです。ヒザの靭帯を切ったのは6年前の初場所。それが最初の大ケガでした。切れる前から、どこかヒザがおかしいと感じていたのですが、取組中にブチッと音がした。「まずいな」と思いました。

二宮: 親方のような突き押し相撲は出足が肝心です。ヒザを痛めたのは苦しかったでしょう?
楯山: 当時は引退も考えました。お医者さんからは手術するように勧められました。でもメスを入れるとリハビリも含めて半年以上かかります。そんなに休むと十両からも陥落してしまう。
 そこでお医者さんに手術をしなくて済む方法を尋ねました。すると「切れたままでやっているスポーツ選手もいます」と。「ただ、これまでの力が10だとすれば、いくら鍛えても、6、7くらいにしか戻りませんよ」とは言われました。

二宮: 結局、靭帯が切れたまま、相撲をとることを選択したと? 相当、痛そうですね。
楯山: 痛いというか最初は力が入りませんでしたね。何より相撲をとることに怖くなっている自分がいました。でも、不安を取り除くためには、土俵に上がって自分の体に慣れるしかない。それからはヒザのトレーニング方法を教えていただきながら、毎日が必死でした。

二宮: 取り口も変えざるを得なかったでしょう?
楯山: 以前のように前に出る相撲はできなくなりました。ですから、相手を止めて封じ込める相撲に徐々に変わっていきましたね。

 関脇はできすぎ

二宮: ヒザの次は首のケガとの戦いが待っていました。
楯山: 靭帯を切って、約3年後に首がヘルニアを起こしました。頚椎がずれて神経を圧迫しているので、左手の先まで痺れが出ました。力が入らないので、相撲をとる気力がなえてしまう。普通の生活は何とかなっても、稽古ができない状態でした。

二宮: 今もその痺れは残っていると?
楯山: この時はすぐに休場しました。3日目から休んだので、幕内から十両には落ちましたが、早く休んで治療に専念したおかげで良くなりました。

二宮: 首のヘルニアだと、どんな治療をするのですか?
楯山: 僕の場合はブロック注射を打ちました。首の関節内に直接針を刺されたんです。噂には聞いていましたが、怖かったですよ。注射の前に麻酔を打ってもらって、なんとか耐えることができました。

二宮: 15年間で最高位は関脇でした。横綱、大関になりたい気持ちもあったでしょう。
楯山: いや、これでもできすぎですよ。入門当初の目標は関取になることでしたから。

二宮: 愛媛県出身力士で三役以上を経験したのは、元横綱・前田山以来。郷土の期待は大きかった。
楯山: それはひしひしと感じていました。でも、僕は体格が恵まれていたわけではない。素質があったわけでもない。「大相撲に入ってもダメなんじゃないか」と思った人も正直、いたはずです。そう考えると、幕内に上がって関脇にもなれた。良い意味で期待はずれの土俵人生だったのではないでしょうか(笑)。

(第2回につづく)
[http://www.ninomiyasports.com/wp/archives/category/slugc-5]>>1999年7月更新「FORZA EHIME」玉春日編はこちら[/url]

<楯山良二(たてやま・りょうじ)プロフィール>
1972年1月7日、愛媛県東宇和郡野村町(現・西予市)生まれ。本名:松本良二。現役時代の四股名は玉春日。野村高、中央大を経て、片男波部屋に入門。94年初場所、幕下付出で初土俵を踏む。翌年、十両に昇進し、96年初場所新入幕。得意の突き、押しを武器にその場所で10勝をあげ、敢闘賞に輝いた。翌年、夏場所には横綱・貴乃花(現・親方)から初金星。名古屋場所では自己最高位となる関脇に昇進した。その後はヒザ、首などのケガもあり、十両落ちも経験するが、06年名古屋場所では11勝4敗の好成績で技能賞を受賞。55場所ぶりの三賞は最長ブランク記録だった。同年と07年はいずれも6場所中4場所で勝ち越し。35歳を超える年齢を感じさせない相撲で土俵を沸かせた。08年秋場所をもって引退。年寄・楯山を襲名し、後進の指導にあたる。通算成績は603勝636敗39休。十両優勝1回、殊勲賞1回、敢闘賞2回、技能賞2回、金星7個。




(構成:石田洋之)
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