「中田亮二」。昨年12月、広島カープに1位指名された亜細亜大学の主砲・岩本貴裕を尋ねた際、「来年の注目選手は」という質問に真っ先に挙がったのが彼の名だった。
 愛嬌たっぷりの笑顔は、先輩の岩本にどことなく似た雰囲気を醸し出している。その岩本の後を継いで、今年のドラフト候補では「大学生野手No.1」の呼び声高い逸材。それが中田である。
「活発で明るい子どもでしたよ。自分で面白い顔をして、人を笑わせるのが大好きでした。まぁ、ちょっとおっちょこちょいなところもありましたけどね(笑)」
 中田の幼児時代を訊ねると、父・末明はそう言って電話越しに笑った。
 スポーツが大好きで友達も多かったという中田。小学校3年生の時に地域のソフトボールチームに入ったのも友達からの誘いがきっかけだった。
「僕、ソフトボールのチームに入ったからね」
 家族には事後報告だったというから、いかにやんちゃぶりだったかが容易に想像できる。

 中学では準硬式野球部に入った。大阪府は中学での準硬式野球が盛んで、現在も準硬式野球部がある中学校が100校ほどある。中田が住む八尾市龍華町の中学校もそのひとつだ。実は準硬式野球部出身のプロ野球選手も少なくない。代表例を挙げれば、第33回大会で優勝した大正中学のエースは、あの桑田真澄である。

 とはいえ、桑田は小学3年からボーイズリーグに入り、早くから硬式野球に慣れ親しんでいる。しかし、中田は中学での部活動のみ。リトルリーグやボーイズリーグ、さらにはシニアリーグにはほとんど興味を示さなかった。
「その頃は強くなりたいとか、そういう欲がなかったんでしょうね。一度も入りたいとは言いませんでしたから。中学校でも勝敗というよりは、どちらかというと楽しく野球をやっていたようです」(父・末明)

 しかし、世間が中田の素質を放っておくわけはなかった。彼が通っていた龍華中学は優勝経験はなく、それほど目立った強豪校ではなかった。しかし、中田の活躍もあって中学3年時にはベスト4に進出。豪快にホームランを放つ中田の名が地元で知れ渡るところとなったことで、本人にとっても家族にとっても予想外の展開へと発展していった。

 “楽しい野球”から“勝つ野球”へ

 準決勝で敗れ、野球部を引退した中田を待っていたのは海の向こうの四国への野球留学の話だった。
「知人のおじさんが明徳義塾高校の馬渕史郎監督と知り合いだったようで、中学3年の夏に一度、見学がてら練習に参加させてもらったんです。その時点では、まだ入るか入らないかはわからなかったのですが、とにかく覚えているのはメチャクチャ緊張したことだけ。頭が真っ白になって、それ以外はほとんど何も覚えていないくらいなんです」

 明徳義塾といえば、全国でも有名な野球名門校。しかもその年(2002年)の夏、同校は悲願の初優勝を果たし、全国の頂点に立った。そんな強豪校の練習では中学生の中田にとっては、さぞかし厳しかったことだろう。しかも中田は、小学生の頃からリトルリーグなどで硬式野球に触れてきたわけではない。中学時代、いくら準硬式をやってきたとはいえ、あくまでも“楽しい野球”だったのだ。「自分には無理だな」というネガティブな気持ちが出てきても、それはある意味、当然であろう。ところが、中田は「自分もここでやれるかな」と思ったというのだから、やはりただ者ではない。

 学校側と中田、双方の意向がピタリと重なり、2003年4月、中田は全国No.1の称号を掲げた明徳義塾高校野球部の門を叩いた。15歳で遠く離れてしまった息子を父親は密かに案じていた。
「親元を離れたことに対しては、それほど心配はしていませんでした。明るい子で友達もできやすいタイプでしたし、環境にはすぐに慣れるだろうと思っていましたからね。ただ、野球に関しては不安でした。明徳といえば、甲子園常連の強豪校。練習もかなり厳しいことは容易に想像できましたからね。あの子が果たしてついていけるかどうか……」

 果たして、その不安は的中した。リトルリーグやシニアリーグで本格的に硬式野球をやってきた選手が多い中、中田はスタートからつまづいた。
「1年の頃はとにかく走らされました。外野のポール間を永遠と走らされるんです。もう、その時点でついていけませんでした」
 体力的にも技術的にも遅れていることは明らかだった。不運にもヒザや腰を相次いで痛めてしまった。リハビリ生活を強いられ、まともに練習することさえもできない日々が続いた。

 グラウンドの外では上下関係の厳しさに耐えなければならなかった。全寮制のため、朝から晩まで気が休まる時などなかったのである。中田は何度も心が折れそうになった。
「辞めようかな」
 ふと、そんなことを考える自分がいた。それでも耐えることができたのは、同級生からの励ましだったいう。
 そしてこれは、後に訪れる試練の序章に過ぎなかった。

(第2回につづく)

<中田亮二(なかた・りょうじ)プロフィール>
1987年11月3日、大阪府八尾市出身。小学3年からソフトボールを始め、中学では硬式野球部に所属。明徳義塾高校では2年夏にレギュラーとして甲子園に出場。横浜高校のエース涌井秀章(現・埼玉西武)からホームランを放ち、話題となった。3年夏も県大会で優勝し、甲子園の切符を掴む。しかし開幕直前に不祥事が発覚し、出場辞退となった。亜細亜大学では1年春からレギュラーを獲得。ベストナインにも4度選出されている。今年は主将としてチームを牽引し、1年秋以来の優勝を狙う。171センチ、115キロ。右投左打。

(斎藤寿子)





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