「カキーン!」――。白球はグングン伸びていき、レフトスタンドへと消えていった。マウンドには横浜高のエース、涌井秀章がボールの行方を見詰めていた。涌井といえば、今や押しも押されもしない埼玉西武のエース。北京五輪や第2回ワールド・ベースボール・クラシックでも日本代表に選出されたほどの実力者だ。その涌井が高校時代に甲子園で打たれたホームランは3本。そのうち逆方向へは1本である。それが中田亮二のホームランだった。
 1年生の頃はケガも多く、体力的にも遅れをとっていた中田だったが、2年生になると徐々に力を発揮するようになっていた。
「2年になる頃にはケガはほとんど治っていました。それと、雑用がグンと減ったことも大きかったですね。ようやく練習に集中することができるようになったんです」
 それまでかみ合わなかった歯車が、ようやくスムーズに回り始めていた。

 中田の調子の良さを馬渕史郎監督は見逃さなかった。春の大会後、中田は徐々に練習試合で使われるようになっていった。中田もまた、そのチャンスを逃さなかった。初めて代打に起用された東北高(宮城)との練習試合、中田はセンターフライに終わった。しかし、翌日に行なわれた春日丘高(愛知)との練習試合では、前日の汚名返上とばかりにライトオーバーの三塁打を放ってみせた。その後も中田は主に代打の切り札として結果を残し続けた。

 そして7月、甲子園への県予選でのメンバーが発表された。中田は背番号「12」をもらい受けた。公式戦では初めてのベンチ入り。素直に嬉しいと思った。ところが、それだけでは終わらなかった。なんと、一塁手のレギュラーに抜擢されたのだ。
「レギュラーになれる自信は全くありませんでした。3年生にファーストの人がいましたから、当然その人がレギュラーだろうと思っていたんです。だから名前を呼ばれた時には『えっ!?』っていう感じで、もう本当に驚きました」

 その年の県予選、明徳義塾は見事に優勝し、7年連続での甲子園出場を決めた。準々決勝までの3試合全てをコールドでの完封勝ちで収めた明徳義塾は、準決勝、決勝ともに相手に先制を許すものの、そのすぐ裏に逆転とまさに“一人横綱”だった。
「その時のチームは、みんながみんなチャンスに強かった。リードされても、全く負ける気がしなかったですね」
 もちろん、狙うは全国制覇。中田たちは意気揚々と甲子園に乗り込んだ。

 横浜・涌井との対戦

 中田は大阪府出身だが、実は一度も甲子園に行ったことがなかった。初めての甲子園は高校1年の夏。だが、その時はスタンドで先輩たちの姿を見ることしかできなかった。しかし、今度は堂々のレギュラーとしての出場。初めて甲子園のグラウンドに降り立った中田は、その広大さに驚きを隠せなかった。

 初戦で岩手代表の盛岡大付と対戦した明徳義塾は、初回から2点、5点、2点と挙げ、序盤だけで9点の大量リードを奪った。投げてはエースの鶴川将吾(現パナソニック)がランナーを出しながらも要所を締め、5回まで無失点に抑える好投を演じた。

 生まれて初めて全国の大舞台に立った中田は初打席、緊張で足の震えが止まらなかった。
「それまでバッターボックスで緊張なんかしたことなかったんです。でも、あの時ばかりは後ろのキャッチャーにわかってしまうんじゃないかというくらい足が震えていました」
 そんな状態でありながら、中田はこの打席でレフト前ヒットを放ってみせた。やはり、精神的強さはタダ者ではない。

 結局、明徳は17安打15得点を挙げ、初戦を大勝で飾った。続いて行なわれた熊本工との2回戦は7回まで1−3と2点のビハインドを負った。それでも明徳ナインに焦りはなかった。中田自身も「負ける気は全くしていなかった」という。案の定、8回で同点に追いついた明徳は最終回に勝ち越し、サヨナラ勝ちを決めた。

 3回戦、勢いづく明徳の前に立ちふさがったのが涌井擁する横浜だった。涌井はその年、全国屈指の右腕としてドラフト候補にあがるほどの逸材。最速は148キロを誇っていた。その涌井のボールに中田は目を丸くした。
「あんなに速いボールを見たのは生まれて初めてでした。スライダーのキレもすごかった。三振した打席があるんですけど、ボールが消えたんです。急に曲がってきたかと思ったら、スッと消えてしまった」

 あまりのスピードに中田は「これはもう打てるはずがない」と半ば諦めていた。それでも1打席目、中田は涌井からヒットを放った。とはいえ、これはレフト前にポトンと落ちた、いわばテキサスヒット。実力で打ったというよりは、運が味方をしたものだった。
 そして2打席目、やはり中田は打てる気がしなかった。
「とにかく追い込まれたら絶対に打てないと思っていたので、真っすぐがきたら積極的に振ろうと、それだけを考えていました」
 真ん中高目のストレート、中田は何も考えずに思いっきりバットを振り抜いた。芯には当たったものの、ボールの勢いに押され、やや振り遅れた感触を受けた。「これはファウルだな」。そう思い込み、はじめは打席付近で打球の行方を追っていた。ところが、意外にも切れずに真っすぐに伸びていく打球を見て、中田は慌てて一塁に向かって走り始めた。

 もちろんこの時も、まさかホームランになるとは微塵にも思ってもいなかった。ひとつでも先の塁を奪うべく、中田は必死に走った。すると、観客席から大きな歓声が上がった。なんと中田の打球はそのままレフトスタンドへと入っていったのだ。
「あれはまぐれとしか言いようがありません」
 中田は信じられないという思いのまま、ダイヤモンドを一周した。この一発で明徳義塾は横浜から2点のリードを奪った。しかし6回以降、横浜打線が明徳の投手陣を攻め立てた。結局、明徳はリードを守ることができず、3回戦で涙を飲んだ。

 中田が持ち帰ったのは甲子園の土ではなく、涌井から放ったホームランボールだった。それを父親に渡した。
「『これ、ホームランボール』。そう言って、私に渡してくれたんですよ。嬉しかったですねぇ。もちろん、今も大事に家に飾ってありますよ」
 ボールには中田の名前が書かれている。息子のサインボールは、父・末明にとっては何よりも大事な宝物となっている。そして、これが中田にとって甲子園で放った最初で最後のホームランとなった。

(第3回につづく)

<中田亮二(なかた・りょうじ)プロフィール>
1987年11月3日、大阪府八尾市出身。小学3年からソフトボールを始め、中学では硬式野球部に所属。明徳義塾高校では2年夏にレギュラーとして甲子園に出場。横浜高校のエース涌井秀章(現・埼玉西武)からホームランを放ち、話題となった。3年夏も県大会で優勝し、甲子園の切符を掴む。しかし開幕直前に不祥事が発覚し、出場辞退となった。亜細亜大学では1年春からレギュラーを獲得。ベストナインにも4度選出されている。今年は主将としてチームを牽引し、1年秋以来の優勝を狙う。171センチ、115キロ。右投左打。

(斎藤寿子)





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