「オマエらの学年はオレが今まで監督をやってきた中で一番弱いチームだ」
 3年生が引退し、1、2年生だけの新チームが発足した。レギュラーのほとんどが抜けたチームに馬渕史郎監督は厳しい言葉を投げかけた。しかし、それは選手の誰もがわかっていたことだった。
「僕たちもこのままではダメだという強い危機感をもっていました」と中田亮二は言う。無論、それで甲子園を諦める者は誰もいなかった。自らの手で甲子園を手繰り寄せるべく、冬場の厳しいトレーニングに耐えた。
 春の選抜をかけた秋季大会、四国大会初戦で済美高(愛媛)に4−5と惜敗した明徳義塾は、翌日から夏に向けてスタートした。チームの最重要テーマとされたのが守備だった。これは中田個人の課題でもあった。学校がない週末の練習は朝8時半から夜9時まで続き、その大半を守備練習にあてられた。午前中はランニングの後、基本的なゴロの捕球練習が行われた。この捕球練習にはグラブではなく、スリッパを使うというユニークな方法がとられた。
「スリッパをスポンと手にはめて、近距離から転がしてもらったゴロを裏の部分で捕るんです。グラブよりも面積が狭い分、ポロポロとこぼしやすい。だから、きちんと芯で捕る練習になるんです」

 午後にはノックの嵐が待っていた。イージーミスをすると、ベースランニングが課せられる。そんなプレッシャーの中、内外野あわせて3時間、ノックが続けられた。春の大会まで実戦練習はほとんど行なわれず、連日こうした守備の基本練習が繰り返された。練習が終わると、話す元気もないほどクタクタになっていた。高校3年間で最も辛く、そして一日一日が長く感じられた、と中田は言う。しかし、この時のトレーニングが野球人としての成長を促した、今はそう感じている。
「それまで自分は守備が苦手だったんです。幸い試合ではそれほど打球が飛んでくることはなかったので、目立ったエラーはなかったんですけど、自信は全くありませんでした。練習でもノックは嫌で仕方なかったんです。でも、この時のトレーニングで徹底的に鍛えられた。それからは守備にも自信がつきました。今ではノックが好きになってしまったほどです」

 涙したライバルとの2度の死闘

 トレーニングの効果を試すべく、春季大会に挑んだ。秋季大会は調子のいい打者に多くのチャンスがまわってくるようにと、出塁率の高い順に打順が組まれ、中田は3番を担っていた。しかし、チーム全体のレベルが上がったことにより、中田は春から4番を任せられるようになった。「プレッシャーは感じませんでした」という言葉通り、中田のバットからは快音が次々と聞かれた。県予選初戦ではいきなり2本のホームラン。チームもコールド勝ちと最高のスタートを切った。
 冬場での厳しいトレーニングの成果が最も表れたのが、県予選準決勝だった。相手は県内屈指の強豪校、高知高。現在、中田と同様に今秋のドラフトで上位指名が予想されているエース二神一人(法政大)を擁し、明徳義塾の最大のライバルとして君臨していた。
 明徳は6回まで1失点に抑えていたエースの松下建太(現・早稲田大)が7回に突如崩れ、一挙4点を失ってしまった。3−5と2点ビハインドを負ったまま、最終回へ。そして連続三振で2死まで追い込まれた。これで万事休すかと思われたが、ここから連打で一挙3得点。劇的なサヨナラ勝ちに選手たちは涙を抑えることができなかった。「冬場の厳しいトレーニングが生きた」。そんな思いが選手の涙には表れていた。
「チームに粘りが出てきた」。中田もチームが確実にレベルアップしていることを実感していた。
 勢いに乗った明徳は県予選で優勝、四国大会でも決勝で徳島商を26−0という大会タイの大量得点で圧勝した。夏に向けて選手たちは大きな自信と手応えを感じていた。

 しかしその後、中田は徐々に調子を落としていった。自分でも理由がわからず、どうしていいのかわからなかった。結局、調子を戻せないまま夏の県予選が始まった。悪いながらも中田は主砲としての役割を果たし、チームも順調に勝ち進んでいった。それでも中田は自分のバッティングに納得がいっていなかった。
「高校3年間で一番不調でしたね。打ってはいるんですけど、なんだかしっくりこない。自分の感覚で打っている感じがしなくて、このままで大丈夫かなという不安が常にありました」
 ようやく本来のバッティングを取り戻したのは準決勝だった。調子が悪いことで結果ばかりを求めていた自分に気づき、開き直ることに決めた。積極的に振りにいくと、ホームランを含む3安打3打点を挙げる活躍。久々に中田の心が晴れ渡った。

 決勝戦の相手は、春の準決勝で涙のサヨナラ勝ちを収めた高知だった。試合は予想を上回る大接戦。明徳・松下と高知・二神の白熱した投手戦となり、1−1のまま延長へと突入した。延長12回、明徳が2点を勝ち越し、均衡を破った。そしてその裏、松下は2死までこぎつける。甲子園まであと1死。ところが、そこから四球でランナーを出すとヒットとエラーで1点を返されてしまう。
「頼む、抑えてくれ」
 なおも1、3塁のピンチに中田は一塁から祈るような思いでいた。守備位置についていた選手たちはもちろん、ベンチもそしてスタンドも同じような思いで見つめていたに違いない。そして、その全ての思いがマウンドの松下に通じた。
「三振! スリーアウト。ゲームセット!」
 松下の決め球であるストレートがキャッチャーミットに吸い込まれた瞬間、中田は一目散にマウンドへと駆け寄った。目には大粒の涙がこぼれていた。
「よく頑張った」
 試合後、そう言って馬渕監督はチームをほめた。中田は初めて聞く監督のほめ言葉に、なんだかくすぐったい感じがした。スタート時には「オマエらは一番弱い」と最低の評価を下されたチームが掴んだ栄光。それは努力の賜物以外なにものでもなかった。
「目指すは全国優勝だ!」。1年前の先輩たちにも負けない自信が選手たちにはみなぎっていた。

 開幕2日前での辞退

 甲子園開幕3日前の組み合わせ抽選会で明徳は1回戦、西東京代表の日大三高との対戦が決まった。2002年、明徳は初の全国制覇を果たしているが、実はその前年の優勝校が日大三だった。そのため、初戦屈指の好カードとして注目された。それでも明徳ナインの自信に揺るぎはなかった。「勝てる」。そう信じてやまなかった。
 翌日、初戦に向けて最終調整の練習が9時から行なわれた。ところが、その場になぜか馬渕監督の姿はなかった。
「おかしいなぁ……」
 そう思いながら練習を続けていると、30分ほどで練習が打ち切られた。突然のことに選手たちは皆、戸惑いを隠せなかったが、ともかく言われるがまま宿舎に戻った。

「オレ、何か悪いことしたかなぁ?」
「いったい、何だろう……」
 分けがわからないまま宿舎の食堂に集まった。そこで思いも寄らない言葉が馬渕監督の口から聞かされた。
「出場を辞退することになった」。
 部員の喫煙と暴力行為が投書によって発覚し、組み合わせ抽選会があった日の夜、事情聴取を受けた馬渕監督は全てを話したのだった。
「実は、宿舎に戻る途中、暴力とか喫煙のことかなぁという話はしていたんです。でも、まさか辞退になるとは夢にも思っていませんでした」
 中田たち3年生は自分たちの代では、不祥事をなくそうと努力していたものの、なにしろ120人という大所帯。全てを把握することはなかなか難しかったという。

 開幕2日前の突然の辞退宣告。当然、選手たちは困惑した。現実を受け入れられず泣き崩れる者、分けが分からずその場で立ちすくんでしまう者、そして部屋に入ったまま出てこなくなった選手もいた。人一倍切り替えの早い中田は静かに現実を受け入れようとしていた。しかし、それでも自分を納得させるには2、3日を要した。
「最初は『何でだよ』という気持ちしかもてませんでした。家に帰ってからも2、3日は全く外出しなかったですね。もちろん、テレビで甲子園は一度も見ませんでした」

 選手たちが宿舎に戻る頃、中田の実家に一本の電話が入った。東京に住む叔母からだった。明徳が辞退することをテレビのニュースで知った叔母が心配して電話をかけてきたのだ。その日、父親の末明は西宮で予定されていた父兄の決起集会に出席するため、休暇を取っていた。辞退のことなど寝耳に水だった。急いで同じ大阪出身のキャプテン赤瀬浩二の自宅に電話をし、とにかく集会の会場へ行くことにした。信じられない、いや信じたくない気持ちでいっぱいだったが、現実はやはり「辞退」だった。
 末明は宿舎まで息子を車で迎えに行った。家までの車中、二人は無言のままだった。
「亮二がショックを受けていることは一目瞭然でした。県予選の決勝も延長戦になって、苦労して取った甲子園の切符でしたからね。選手はもちろん、父兄もみんな本当に喜んでいましたから。それだけに、私もかける言葉が見つかりませんでした」
 それでも中田は2、3日もすると、気持ちを切り替えた。お盆が終わる頃には学校へと戻っていった。「また、次があるからな」。父親の末明はそう言って送り出したという。

 最後の甲子園で活躍し、プロへの道を切り開こうと思っていたが、その舞台に上がることさえ許されなかった中田は、やはりドラフト会議で指名の声は上がらなかった。しかし、こうした試練は中田に強い気持ちを抱かせた。
「大学では1年からレギュラーになって、絶対に活躍する」
 中田は大学野球で今最もレベルが高いと言われている東都大学リーグに所属する亜細亜大学への進学を決めた。勝負の4年間がスタートした。

(最終回につづく)

<中田亮二(なかた・りょうじ)プロフィール>
1987年11月3日、大阪府八尾市出身。小学3年からソフトボールを始め、中学では硬式野球部に所属。明徳義塾高校では2年夏にレギュラーとして甲子園に出場。横浜高校のエース涌井秀章(現・埼玉西武)からホームランを放ち、話題となった。3年夏も県大会で優勝し、甲子園の切符を掴む。しかし開幕直前に不祥事が発覚し、出場辞退となった。亜細亜大学では1年春からレギュラーを獲得。ベストナインにも4度選出されている。今年は主将としてチームを牽引し、1年秋以来の優勝を狙う。171センチ、115キロ。右投左打。

(斎藤寿子)





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