「え゛っ!」という声がオーバルの空間を揺るがした。エに濁点である。ミクロの世界に生きる住人ならではの恐怖の叫び。間一髪のスタートを支える右足が後方にズルッと抜けてしまったのだ。

 2002年2月14日、ソルトレイク五輪スピードスケート500m決勝。スタートに失敗した岡崎朋美は2大会連続のメダル獲得こそならなかったものの6位入賞を果たした。

「運がなかった?」。レース後、そう問うと彼女は薄い笑みを浮かべ「あそこはエッジで“ガッ”と止めないとダメですよね」とサラリと答えた。「ガッ」が「エ゛ッ」にかわったことが彼女にとっては最大の誤算だった。

 初日、いきなり37秒77という好記録を叩き出した。自身初の37秒台。大菅小百合の持つ日本記録を100分の1秒上回った。「オリンピックで出さなきゃいつ出すんですか?」。強気なセリフを笑顔にくるんだ。

 そして2日目。得意のインスタートとあって前日以上の好記録を狙った。「(高速リンクの)ここなら37秒5は出せるはず」。そう踏んだ彼女は、レース前、脳裡のスクリーンに未知の滑りを上映した。

「メダルは後からついてくる」
 そのためにはミクロのスタートを決めなければ……。

※このコーナーでは各スポーツの栄光の裏にどんな綿密な計画、作戦があったのかを二宮清純が迫ります。全編書き下ろしで毎週金曜日にお届けします。



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