二神一人は実家のテレビを食い入るように見ていた。そこには白にえんじ色のアンダーシャツとソックス。胸に「KOCHI」の文字が入ったユニホーム姿の球児たちが、甲子園球場で躍動していた。なかでも二神の目を釘付けにしたのはエースの福山雄(JR北海道)だった。二神の地元・大月町の隣町、土佐清水市出身の福山は初戦、相手打線を4安打1失点に抑えて完投し、勝利の立役者となった。隣町のヒーローの勇姿は少年の決意をかためさせた。
「高知に入って甲子園を目指したい」
 二神一人、14歳。中学2年の夏のことだった。
「最初は大丈夫かな、と思いましたよ」
 そう語るのは母親の真智子だ。二神の高知高への進学志望を初めて聞いた時、反対する気持ちは全くなかったが、やはり母親として心配な面もあった。高知高といえば、四国屈指の野球名門校。甲子園では春夏1度ずつ全国制覇を達成している。部員は多いときには100人近くにのぼる。その中でベンチ入りできるのは、わずか20人。甲子園では18人だ。そんな厳しい世界に入って、果たして息子はやっていけるのだろうか――。
「でも、『3年間、ベンチ入りできなくても高知で野球をやりたい』とハッキリ言っていましたからね。一人が強い意志をもって決めたことですから、あとは本人に任せました」

 中学3年の春、二神は初めて高知高の練習を見学に行った。既に附属の高知中学の選手たちは練習に参加していた。当事の高知中エース、後に親友となる木下裕矢も高校生に交じってノックを受けていた。
「高知高の選手たちはもちろんですけど、一緒に練習していた高知中の選手たちさえも、同じ年齢なのに体つきもプレーの精度も自分とは比べものにならなかった」と二神はそう当時の様子を語った。しかも前年に高知中エースとして活躍したピッチャーが、高校ではピッチャーとして投げていなかったことも二神を驚かせた。
「打撃では1年生ながら4番を打っていたのですが、投げてはいなかったんです。『あんなすごいピッチャーでさえも投げられないのか』と改めてレベルの高さを痛感しました」と二神。「自分は本当にここでやっていけるのだろうか……」。不安な気持ちが脳裏をよぎった。
 だが、二神の高知高への思いは消えることはなかった。中学最後の大会を終え、野球部を引退した二神は一人、黙々とトレーニングを始めた。もちろん、全ては高知高野球部に入るためだった。「あんなにトレーニングをしたのは生まれて初めてだった」というほど、厳しいメニューを自分に課した。そして、この時の走りこみこそが、高校入学後の活躍につながったと、二神は思っている。

 中学時代、ライバルとして二神に一目置いていた木下は、同じ高校に進学すると聞いた時のことをこう語った。
「僕は附属の高知中だったので当然、高知高への進学が決まっていました。二神は自分とは違う高校に進むと思っていたので、高知に入ると聞いて、ちょっとビックリしたのを覚えています。でも、嬉しくもありましたよ。自分がライバルとして認めたピッチャーですからね。お互いに切磋琢磨しながら甲子園を目指したいと思いました」
 入学後、二神と木下が親しくなるのに時間はかからなかった。気づいたときには、もう親友、そして一番のライバルになっていた。木下は二神との思い出のエピソードをこう語った。
「僕は家が高校のすぐ近くにあったので、寮生ではなかったんです。でも、よく夜に寮の二神の部屋に遊びに行っては、野球のこととか、いろいろ話をしました。でも、寮生以外は夜は行ってはいけなことになっていた。だから寮長に見つかって、二人でよく叱られましたよ(笑)」
 2人は1年の秋からベンチ入りし、主力として活躍した。もちろん、グラウンドではライバル心を燃やした。
「何キロ出た?」
「オレは今日、○キロや」
 試合では共に自信をもつスピードを競い、刺激しあった。

 しかし、高校2年の春、木下は肩を壊した。医師からは肩を休ませるようにと忠告されたが、リハビリもそこそこに投げ続けた。「投げたいという気持ちを抑えることができなかった」と木下。もちろん、そこには二神への負けたくないというライバル心があったことは想像に難くない。だが、それ以上に野球でつながっていた二人の関係が壊れることを恐れたのではないか。親友だからこそ、認めてもらいたい。そんな気持ちが木下にはあったのではないだろうか。
 一方、二神は大きな故障もなく、全てが順調だった。スピードで押していくスタイルに変わりはなかったが、コントロールも安定し、着々とエースの座に上り詰めていった。だが、なかなか甲子園への道は切り開くことはできなかった。全国屈指の強豪校・明徳義塾が大きな壁となっていたのだ。二神と同じ学年には2年からレギュラーとして活躍したエース松下建太(早稲田大)と強打者の中田亮二(亜細亜大)がいた。彼らの活躍もあり、高知県の甲子園への切符は明徳義塾専用と化していた。気づけば、二神に残されたのチャンスはあと1回となっていた。

 1点差に泣いた決勝戦

 2005年夏、エース二神を擁する高知高は順当に県大会を勝ち進み、甲子園まであと1勝に迫った。決勝の相手は、因縁のライバル、明徳義塾。試合は両者一歩も譲らず、1−1のまま延長戦にもつれこんだ。均衡を破ったのは、延長12回表、明徳義塾だった。当時、二神の持ち球はストレートとカーブのみ。唯一の変化球、カーブが高めに浮いたところを明徳の打者に痛打され、2点を失った。
 その裏、高知高は2死無走者から四球で出たランナーをヒットとエラーでホームに返し、1点差に迫った。なおも1、3塁のチャンス。二神はベンチ前でキャッチボールをしながら、次のイニングに備えていた。
「緊張というよりは、仲間を信じて、僕はもう一度マウンドに上がるための準備をしておく。ただそれだけしか考えていませでした」

 その時、キャッチボールの相手をしていたのが木下だった。冷静な二神とは裏腹に、木下はとめどなく流れる涙を抑えることができなかった。
「僕はもう9回くらいから既に泣いていたんです(笑)。二神には『お前が泣くなよ』とか『なんでお前が泣くんや?』なんて、つっこまれていましたけど、自分でもどうしようもなかったんです」

 2人が見つめる中、明徳のエース松下が打者を2ストライクまで追い込んだ。球場全体が張り詰めた緊張感に覆われていた。そして次の瞬間、松下の投げた渾身のストレートが、そのままキャッチャーミットに吸い込まれていった。二神の最後の夏が終わった。
「その試合、僕たちには2回、サヨナラのチャンスがあった。でも、1度目の9回はファーストゴロ、そして11回には僕がピッチャーゴロに倒れてしまったんです。明徳のピッチャーは松下、ファーストは中田。2回とも、偶然にも2年生から甲子園を経験している2人のところに打球がいったんです。やっぱり、甲子園を経験していると、サヨナラのピンチにも動じずに冷静でいられるもんだなぁと思いましたね」

 1点差という悔しい幕切れに高知高の選手たちの目は赤く染まっていた。しかし、納得する気持ちもあったという。
「二神は絶対的なエースで、僕たちの学年は彼のチームといってもよかった。だから、二神が打たれて負けたのなら仕方ない。そんな気持ちで納得していたと思います」と木下。それほどチームは皆、二神に信頼を寄せていた。

 その日、二神と木下は学校へ戻ると、寮の自動販売機でコーラを買った。
「お疲れ、これで終わったな」
 二人で乾杯し、500ミリリットル缶を一気に飲み干した。木下はそのワケをこう語ってくれた。
「二神は野球に対してすごくマジメで、高校に入って大好きなコーラを断っていたんです。今はもうそんなことありませんけど、当時は炭酸飲料はスポーツ選手にはあまりよくないって言われていた。それを知った二神は『オレは3年間、炭酸は飲まない』と宣言して、本当に飲まなかったんです」
 二神にとってコーラでの乾杯は、意志を貫き通した自分へのごほうびだった。

 夜は応援にかけつけてくれた家族と食事をした。そのときにはもう二神には笑顔が戻っていた。
「もちろん、負けたことは悔しかったと思います。でも、一人はいつまでもグジグジと下を向いているようなタイプではありません。やることは全てやった、という晴れ晴れとした表情をしていましたよ。私も試合ではピンチの度に、一人がかわいそうで正視することができませんでした。でも、球場は本当に満員で応援もすごかった。あんな最高の環境で最後の試合をやれて幸せだったなと。試合後は、もう『よく頑張ったね』という言葉しかありませんでした」
 母親にはひと回りもふた回りも成長した息子の姿がまぶしく見えたに違いない。

 二神は高校野球に別れを告げ、すぐに次なる目標へと向かい始めた。法政大学への進学を志望していた彼は、引退後も寮に残り、練習を続けていた。ところが、事態は思わぬ方向へと展開していった。甲子園開幕まであと2日に迫った8月4日、あるひとつのニュースが世間を驚かせる。
「明徳義塾、出場辞退」
 二神のまわりが急に騒々しくなっていった。

(第3回につづく)

<二神一人(ふたがみ・かずひと)プロフィール>
1987年6月3日、高知県出身。小学4年からソフトボールを始め、中学では軟式野球部に所属。高知高3年の夏は県大会決勝で敗れたものの、明徳義塾の辞退を受け、甲子園に代替出場。初戦で日大三(東京)に敗れた。法政大学では1年秋にリーグ戦デビューを果たし、昨年から先発投手の一角を務める。今年の春季リーグでは5試合に登板し4勝を挙げ、2006年春以来のリーグ優勝に貢献。日本選手権では全4試合に登板し、14年ぶりの日本一の立役者となった。183センチ、82キロ。右投右打。

(斎藤寿子)





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