世界中で愛好者人口が急激に増加しているトライアスロン。世界的なマラソンブームの余波か、IT化により人工的になりすぎた都市生活の反動か、欧米ではその勢いはとどまるところを知らない。ドイツなどでは人気スポーツベスト3に入っているし、北米では「転職に有利だから」と始める輩までいる始末。この勢いが少しずつアジアに波及してきたようで、日本国内でも参加者が増加中だ。
(写真:アイアンマンのスタートは壮観)
 一口に「トライアスロン」と言っても、その距離はいろいろなものがあり、スイム750m、バイク(自転車)20km、ラン5kmというような手軽なものから、スイム3.8km、バイク180km、ラン42kmというハードなものまで様々。どんなレベルや年齢でも楽しめるようになっている。

 しかし、後者のロングディスタンスレースは「アイアンマン」と言われ、それなりの身体的準備が必要。通常1種目でも大変な距離設定を3種目続けてやるのだから、心理的にも体力的にも中途半端ではこなせない。だからこそ、この距離を一定時間内に完走できる人は「アイアンマン」と呼ばれ、トライアスリートたちにとっての憧れとなるのだ。
(左写真:バイクは180?の長丁場)

 そして、世界で26レースあるアイアンマン大会の頂点にあるのがハワイ島で開催されている「ハワイ・アイアンマン・ワールド・チャンピオンシップ」。この出場権を得るには、他のアイアンマン大会で好成績を残してこそ叶うもので、トライアスリートの最終ゴールと言っても過言でない。
(右写真:コースレコードで女子優勝のクリッシー・ウエリントン選手(英国))

 10月10日に開催された今年のハワイ・アイアンマン。そのスタート地点に72歳のYee Sze Mun 氏の姿があった。マレーシア屈指の事業家として凄腕のYee氏は十分な財を築き、すでに息子にその仕事を譲りつつある。クアラルンプールにあるゴルフ場内の豪邸に住む彼はマレーシア国内のトライアスロン界でも有名人。16年のキャリアを誇り、今年が5回目のハワイ・アイアンマンである。他大会を合わせるとすでにアイアンマンレースは13回も完走。フィニッシュするすべは知り尽くしている。

 しかし、身体は確実に加齢していたようで、今年の7月には持病の腰痛が悪化。様々な治療を試みるが症状は改善せず、医師から今年のハワイはもちろん、そろそろこのスポーツから引退するように勧告を受ける。もちろん本人は相当に落ち込み悩んだ。実は彼には今年どうしてもハワイに行く必要があったのだ。まず、このスポーツを通じてできた多くの友人に会う約束をしていた。そして彼の息子がハワイで挙式をあげることになっていたのだ。

 周囲の反対を押し切って、トレーニングを続ける……といきたいところだが、無理をしても練習さえできない身体で、5週間の安静。さすがに家族も今年は諦めるだろうと思ったらしいが、そこは持ち前の頑固さを貫き通し、スタートラインに立ったのだ。

 腰への負担が小さいスイムは無難にこなし、バイクへ移る。ここまではベテランらしい冷静なレース運び。しかし、バイクの10km地点の上りで早くも腰に変調をきたし、脚がしびれ出す。100km手前の折り返しを越えた頃には過去にないような厳しい状態に陥り、16年の中で初めて自身からレースを止めたいと思った。それでも、「フィニッシュしたい。フィニッシュして、その証であるメダルを息子に送りたい」という一念で粘りに粘ってランニングへ。もちろんまともに走れるはずがない。

 17時間という制限時間が迫る中でも彼は歩みを止めなかった。「止めてもいい、止めても父の思いは十分に受け取った」。息子も妻も無事だけを祈りながらフィニッシュで待ち続ける。ハワイ入りしてから大会に向け、本人はもちろん家族もナーバスになっていた。寝ることもままならなかった。でも、自分が言い出したことは、絶対に曲げないと知っている家族は、命がけの挑戦をそっと見守るしかなかったのだ。
(写真:暗くなっても戦いは続いている)

 時計が23時45分を示す。「あと15分でフィニッシュが閉じられてしまう」。フィニッシュの写真を撮りたくて待ち構えていた私も、落ち着かなくてカメラどころではない。
 そんな時、暗闇の向こうに照らしだされる小さな身体。少し傾いて走る姿はYee氏だった。
 間に合った!
 私とのハイタッチを交わして彼は光の中のフィニッシュゲートに消えていった。家族の待ちわびるフィニッシュに……。
(写真:長い戦いの後、光の中のフィニッシュへ)

 翌日の結婚式。
「72歳の年寄りが懸命に走り切って得るのは完走のメダルだけ。でも、これだけの為に命をかけた老いぼれがいたことを孫や曾孫に伝えてほしい。私の身体は消えても、このメダルがその証。だからこのメダルを息子に送りたい」
 そう言って彼は誇らしげにポケットから取り出したメダルを新郎にかけた。
(写真:結婚式にて完走メダルをかける新郎(左から2人目)。黒いTシャツがYee氏)

 このスポーツをやっていると、素晴らしい人々に出会えることがある。アイアンマンという厳しいスポーツだからそんな境地になるのか、そんな人たちがこのスポーツを選ぶことが多いのか。
 どちらにしても、「アイアンマン」の意味が少し理解できたような気がした夜だった。


白戸太朗(しらと・たろう)プロフィール
 スポーツナビゲーター&プロトライアスリート。日本人として最初にトライアスロンワールドカップを転戦し、その後はアイアンマン(ロングディスタンス)へ転向、息の長い活動を続ける。近年はアドベンチャーレースへも積極的に参加、世界中を転戦している。スカイパーフェクTV(J Sports)のレギュラーキャスターをつとめるなど、スポーツを多角的に説くナビゲータとして活躍中。08年11月、トライアスロンを国内に普及、発展させていくための新会社「株式会社アスロニア」の代表取締役に就任。
>>白戸太朗オフィシャルサイト
>>株式会社アスロニア ホームページ
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