浜口京子との初対決で本物のレスリングを教えられた佐野だったが、しばらくは柔道をベースにしたスタイルを続けていた。レスリングへの転向を勧めた女子レスリング班の藤川健治監督は、まず長所を伸ばそうと試みたのだ。
「最初は“柔道レスリング”でいいと明日香には言っていました。彼女は体力も瞬発力も兼ね備えている。格闘技のセンスもあった。72キロは選手層が薄いので、全日本のトップクラスになれる能力はあると最初からみていました。相手からしてみれば、柔道の足技や投げで一発で返されるのは怖いもの。レベルが高くなれば、課題は自然と出てくる。だから柔道でやってきたことをリセットしなくていいと伝えていました」
 一方で「タックルもちょっとは覚えたほうがいい」とアドバイスしてくれる人もいた。しかし、長年の柔道のクセは、そう簡単に抜けるものではない。「相手と組まないと、どうしていいのかわからなくてバタバタしてしまうんです」。レスリングを1から始めたわけではない佐野にとって、柔道とは異なるタックルはなかなか体得できなかった。

 このままだと世界では勝てない

 転機となったのは2008年の冬だった。ニューヨークで開催されたNYACオープン国際大会。佐野は準決勝、敗者復活戦と勝てる試合を落とし、入賞を逃してしまう。
「佐野ちゃん、このままだと世界では勝てないよ」
 気落ちして帰国した佐野に、試合のビデオを見たひとりのコーチが厳しい言葉を投げかけた。女子51キロ級で世界選手権を5度制した坂本日登美である。この年の世界選手権での優勝を花道に現役を引退し、指導者の道を歩み始めていた。

「基本的に外国人は背が高くて腰高なのでタックルしやすい。体格で劣る日本人はタックルを覚えないと、なかなか勝てないんです」
 世界を舞台に戦ってきた坂本は、佐野にタックルの必要性を説いた。
「それまでも海外の試合に行くたびに、結果が出なくて“このままじゃダメだ”と思っていたんです。国内の試合では組み合って投げることができても、海外の選手は体格が大きい。力負けはしないまでも、簡単に投げて勝つことはできない。だから限界を感じていました。日登美コーチの一言をきっかけに、“どうせダメなら、やってできないほうがいい”と踏ん切りがつきましたね」

 それからコーチとの特訓がスタートした。どう動き、いかに相手の足元に入っていくか。低い姿勢を保った足の運びを身につけるため、マットの上にボールを投げて、腰を浮かさずに捕る練習もした。瞬発力を磨くため、腰にチューブを巻き、後ろから引っ張った状態で、前に出てタックルするトレーニングも行った。当然、自分が前に出れば、逆に相手から足をすくわれるリスクも出てくる。攻撃をしながら相手の手を切って守るテクニックも勉強した。

 佐野はタックルで最も重要なのは手の動きだと語る。
「とにかく手を止めてはいけないんです。絶えず動かして相手を追い込む。そこで相手の足が揃ったところや、体が浮いたところに入る」
 練習の成果は着実に出始めた。ニューヨークでの試合から1カ月後の天皇杯全日本選手権。まずタックルでポイントを奪えた。さらには相手のタックルを切って、返すこともできた。

 浜口不在の大会ながら、結果は初優勝。「でも優勝より、タックルでポイントを取れたほうがうれしかったですね。タックルすれば、うまくいくかもしれないという気持ちになったのが大きかった」。この試合を境に海外遠征でもタックルが徐々に使えるようになってきた。初戦敗退に終わったものの、先の世界選手権でも唯一のポイントを奪ったのはタックルだった。

 浜口攻略のポイント

 初の世界選手権を終えた佐野にとって、改めて挑戦すべき大きな壁、それは国内第一人者である浜口京子である。12月の日本選手権に浜口が出場すれば、3年前の初対決以来の顔合わせが実現する可能性は高い。
「北京五輪の時、明日香は浜口の練習パートナーをしてくれました。連日、浜口のジムに通って、よく練習してくれましたよ。浜口の調整はもちろんですが、明日香にとっても五輪メダリストの取り組み方を知ったことが大きな財産になったはずです。今度、対戦が実現したら、本当に高いレベルでしのぎを削る試合になるでしょう」
 全日本女子のコーチも務める藤川氏は、対決を心待ちにしている。

 対戦が楽しみなのは佐野本人も同じだ。
「自分が3年間、レスリングをしてきて、3年前とどのくらい違いが出せるか楽しみですね。最初の対戦は柔道対レスリングでしたから。今回はレスリング対レスリングで試合ができると思います」
 指導する坂本コーチは浜口戦のポイントをこうみる。
「力は向こうのほうが上です。佐野はまだまだレベルアップが必要。ただ、相手は必ず攻めてきます。そこでポイントを取られないように考えながら、スキをみつけるしかない。単発の攻撃では見切られてしまいますから、技の連動性も大切になりますね。佐野も最初の対戦からかなり経験を積んできました。簡単にはやられないはずですよ」

 浜口に勝てば、“ポスト浜口”の称号は名実ともに佐野のものとなる。いや、“ポスト”どころか、新時代の扉を開く白星になるかもしれない。3年後、2011年のロンドン五輪出場だって視野に入ってくる。
「私は1年1年、1試合1試合のことしか考えていません。ロンドンって3年後ですよね? 3年後に自分がどうなっているのか、なんて思いにはまだならないですよ。とにかく今は12月に浜口さんを倒したい。それだけです」

 ズバリ勝算はあるのか。
「自信まではないですけど、期待はしています」
 今年の天皇杯全日本選手権は12月21日から東京・代々木第2体育館で開催される。勝負の結果はレスリングの神様だけが知っている。

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佐野明日香(さの・あすか)プロフィール>
1982年5月27日、愛媛県宇和島市出身。小学校1年生から柔道を始め、小6で愛媛県大会優勝。中学時代には四国大会を制す。宇和島東高−帝京大と進み、大学では全日本学生選手権で団体優勝、講道館杯5位などの成績を残す。自衛隊入隊後、ケガもあって引退も考えたが、レスリングに転向して再起。06年に初めて出場した全日本選手権の72キロ級で浜口京子に敗れるも2位に入る。その後は、08年にワールドカップの日本代表に選ばれるなど国際大会も経験。同年の全日本選手権、09年の全日本女子選手権でいずれも初優勝した。ワールドカップにも2年連続で出場し、アジア選手権で2位、オーストリア女子国際大会3位入賞。9月の世界選手権に初出場を果たす。身長168cm、72キロ。





(石田洋之)
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