2007年、岡田晴菜は帝京大学女子柔道部に入部した。実は当初、高校を卒業後は就職を考えていた。大学進学はほとんど頭になかったという。しかし、全国大会にも出場するほどの彼女を大学側が放っておくはずはなかった。入部のオファーは2校。地元の松山東雲女子大学と東京の帝京大だった。果たして岡田が選択したのは、一代で全国の強豪校に築き上げ、何人もの代表選手を育て上げた稲田明監督率いる帝京大だった。
「風戸晴子、佐野明日香、宮本樹理……宇和島東高校出身の選手は皆、粘り腰がありました。その伝統を岡田も引き継いでいます。しかし、それは最大の武器である反面、ともするとケガをしやすい柔道でもあるんです」
 稲田監督が危惧していたことが岡田の身に早くも起こった。全寮制の柔道部では新入生は、入学式前の3月に入寮する。と同時に、約1週間ほど、天理大学(奈良)での合宿が恒例となっていた。しかし、この合宿中に岡田は右ヒザの前十字靭帯を損傷してしまったのだ。激しい痛みで練習どころか、歩くことさえもままならなくなってしまった。

 しかし、すぐに医者には行かなかった。それまでほとんど大きなケガをしたことがなかった彼女は、まさか靭帯が切れているとは予想だにしていなかったのだ。東京に戻ってからも、しばらく医者には行かなかった。少し休むと一時的に痛みがひくため、「なんとかなるだろう」と思っていた。しかし、再び練習を始めると、またすぐに痛みが走った。少し休んでは練習に戻り、そしてまた痛みで休んだ。

「私、東京まで来て、何をしているんだろう……」
 なかなか本腰を入れて練習に取り組めず、中途半端な状態が続く自分が情けなかった。ときには柔道をやめて、地元に戻りたくなることもあった。そんな岡田を救ってくれたのは先輩たちだった。
「同じようなケガをしている先輩もたくさんいるので、いろいろとアドバイスをもらいました。苦しい思いをしているのは自分だけじゃないんだな、と思えて頑張ることができたんです」
 
 しかし、夏になっても岡田の足の状態は変わらず、ほとんどまともに練習ができていなかった。そんな状態で臨んだ全日本ジュニア東京予選は予想していた以上に自分の柔道ができず、悔しい敗戦を喫した。しかし、この1敗が岡田に勇気を与えた。実は、もうその頃には靭帯が切れているだろうことは彼女にもわかっていた。稲田監督からも手術をすすめられていた。それでも決断できなかったのは、なぜだったのか。
「手術をすれば、何カ月も練習することができなくなってしまいます。ちょっと休めば、痛みがひくだけに、リハビリに長期間費やすのがイヤだったんです。でも、全日本ジュニアであまりにも自分の柔道がボロボロで、これではダメだなと。ようやく決心がつきました」

 鍛えられたメンタル

 帝京大女子柔道部では8月にいったん部が解散し、学生はそれぞれ実家に帰省するなど、思い思いに休暇を過ごす。岡田は愛媛の実家へと戻った。そして、松山市内にある病院で診察をしてもらうと、やはり靭帯が切れていた。すぐに手術の手配が行なわれた。休暇を追え、一度大学に戻った岡田は、9月に再び松山へとUターンし、手術を受けた。人生初の経験にとまどいはあったものの、手術自体はそれほど時間はかからずに終了した。

 翌日からは車椅子で動き回れるようになり、すぐにリハビリも始まった。1カ月後には東京に戻り、大学の温水プールやジムでトレーニングをした。結局、練習を再開できたのは翌年の4月。半年以上も柔道から離れたのは初めてのことだった。
「一番苦しかったのは繰り返し練習を休んでいた手術前。先が見えなくて、すごく不安でした。でも、手術後はよくなることはハッキリしていたので、それほど不安には思いませんでした」

 しかし、「復帰するのは決して簡単なことではない」と稲田監督は言う。
「同じようなケガをして、リハビリが苦しかったり、練習ができるようになってもトラウマから抜けられず、柔道をやめてしまう子もたくさんいるんです。そんな中、彼女は這い上がってきた。やっぱり強い子ですよ」
 ケガ、手術、リハビリ――2年間で味わった苦しみの一つ一つが岡田を大きく成長させていた。
(第3回へつづく)

岡田晴菜(おかだ・はるな)プロフィール>
1988年4月9日、愛媛県生まれ。小学5年から柔道を始める。中学3年時には全国中学校柔道大会に出場。宇和島東高3年時には全日本ジュニア大会に出場した。2007年、帝京大学へ進学。1年春の合宿中に右ヒザ前十字靭帯を損傷し、2年間を棒に振った。昨年は全日本学生柔道優勝大会にメンバーの一人として出場し、優勝に貢献した。

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(斎藤寿子)
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