岡田晴菜が柔道の世界に入ったのは、ひょんなことがきっかけだった。
「小学5年生の時に親友に誘われて、なんとなく始めました」
 もともと運動が大好きだった岡田。陸上や水泳は得意だったが、武道とは無縁の環境で育った。柔道を見るのもやるのも初めて。それでも見学に行くと、すぐに柔道の魅力にとりつかれた。
「意外に激しくて、おもしろそうだなと思いました」
 表情や口調はおっとりとしている岡田だが、間近で感じた柔道のパワーとスピードに胸が高鳴った。
 初めての試合は、なんと通い始めて1週間後。できることといったら、受け身くらいだった。
「なぜ、そんなに早く試合に出させられたのか、理由はよく覚えていません。『試合があるから出てみないか?』と。言われるがままに出たんですけど……」
 結果は一本負け。「はじめ!」の合図後、数秒で同級生の女子に背負い投げを決められた。柔道を始めてまだ1週間。おそらく周囲はその結果にさほど驚きはしなかっただろう。「負けて当然」と思うのが普通だ。ところが、投げ飛ばされた本人は違っていた。
「相手は私よりも背丈が小さい子でした。思いっきり投げられましたが、痛いとは感じませんでした。でも、すごく悔しかった。次は負けたくないと思ったんです」
 負けず嫌いな性格が、柔道への気持ちに火をつけた。

 決め手はディズニーランド

 中学校に入ると、当然のように岡田は柔道部に入った。しかし、実は入学前は陸上部と柔道部で迷っていたという。「陸上部に入ったら、走り幅跳びをしようかなと思っていました。結構得意でしたし、楽しいかなと思ったんです」。そんな彼女が柔道部に入ることを決めた背景には、柔道部顧問であった梶谷宗範のたゆまぬ努力があった。

 大会などで小学校時代から岡田の柔道を見ていた梶谷は、「背は小さいが、動きがいい」とほれこんでいた。岡田が柔道を始めたきっかけとなった友人とともに、中学校では柔道部に入ってほしいと願っていた。しかし、足も速かった岡田が陸上部に気持ちが揺らいでいることを風の噂で知った梶谷は入学直前の3月、彼女の自宅へと向かった。
「柔道部に入らないか?」
「はい」

 自宅にまで来てくれた梶谷の熱心な誘いとともに、岡田の心を傾けさせたのは「ディズニーランド」だった。
「毎年3月には東京で近代柔道杯が行なわれるんです。うちの中学ではその最終日にディズニーランドに行くのが慣例化しています。だから岡田にお土産を渡して、柔道部に入ったら毎年行けるぞ、と言ったんです(笑)」と梶谷。岡田も「当時、新しくディズニーシーができたこともあって、行きたいなと思ったんです。もちろん、それだけで決めたわけではありませんが、正直、ディズニーランドにはひかれました(笑)」と素直に認めた。動機はどうであれ、それが岡田が柔道一直線の人生を歩む転機となった。

 しかし、いざ柔道部に入ると、ディズニーランドのお土産をくれた梶谷とは一変した。
「とにかく厳しい先生でした。挨拶や授業態度、身だしなみといったことをきちんとしていなければこっぴどく叱られました」。
 実は岡田にも苦い経験がある。2年の時、学校にお菓子を持ってきたことが梶谷に知られてしまったのだ。1週間、岡田は道場に入ることを禁止され、グラウンドで走りこみや筋力トレーニングを強いられた。さらに3年時にも同じようなことがあった。今度は「そんな生徒は試合に出させないぞ!」と叱られ、そのまま家に帰されてしまった。

「岡田は基本的にはマジメな子でしたが、そんなこともありましたね。僕は生徒から厳しいと見られていますが、自分では当たり前のことをやってほしいだけなんです。それは柔道以前に一人の人間として大事なことだと思っています」と梶谷。教育者としての確固たる信念がそこにはあった。

 それは岡田にも十分伝わっている。中学時代は梶谷をただただ怖いと思っていたが、今となっては感謝の念でいっぱいだ。「中学3年間で何が一番成長したかというと、精神面。先生のおかげでだいぶ強くなれました」。その強い精神力が中学最後の大会で岡田に力を与えてくれた――。

(第4回へつづく)

岡田晴菜(おかだ・はるな)プロフィール>
1988年4月9日、愛媛県生まれ。小学5年から柔道を始める。中学3年時には全国中学校柔道大会に出場。宇和島東高3年時には全日本ジュニア大会に出場した。2007年、帝京大学へ進学。1年春の合宿中に右ヒザ前十字靭帯を損傷し、2年間を棒に振った。昨年は全日本学生柔道優勝大会にメンバーの一人として出場し、優勝に貢献した。

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(斎藤寿子)
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