岡田晴菜が今や恩師の一人として慕っている中学時代の柔道部顧問、梶谷宗範の指導は「厳しい」のひと言に尽きる。そんな梶谷はめったに褒めたりはしない。しかし、岡田は一度だけ褒められたことがある。中学最後の試合となった全国中学校柔道大会、愛媛県大会で優勝したときのことだ。
「おめでとう」
 梶谷はそう言って、握手を求めてきた。岡田は自分も手を差し出しながら、初めてのことに驚きを隠せなかった。だが、心の内では嬉しさでいっぱいだった。
 中学時代、厳しい練習の中で岡田にとって何より苦痛だったのが梶谷とマンツーマンで行なわれる乱取りだった。
「普通は生徒同士で組むんですけど、2年生からはほぼ毎日先生と組まされていました。その日にもよりますが、長いときにはもう丸一日、先生とだけ練習することも……。当時は、『何で自分ばっかり』という思いばかりでした」

 しかし、梶谷との練習で岡田は大事なものを得ることができた。「諦めない心」だ。それが最後の大会で岡田に勝利をもたらした。全中の県予選、岡田は順調に勝ち進み、決勝に進出した。勝てば初めて全国への扉を開くことができる。相手は後に同じ宇和島東高、帝京大に進む同学年の尾木琴美だった。岡田は尾木とは新人戦で一度対戦したことがあった。結果として岡田が勝ったが、その時よりも尾木が格段に力をつけていることは組んですぐにわかった。終盤に入っても、互いにポイントを得ていなかったが、明らかに流れは相手にあった。チラッと時計を見ると、残りは30秒を切っていた。

 全国大会への執念

「これはもうダメだな……」
 梶谷は岡田の判定負けを覚悟した。と、その時だ。一瞬、岡田が相手の奥衿をとり、組み手で優勢なかたちをとると、一気に大外刈りをかけにいった。不意打ちをかけられたかのように、相手の体が倒れた。
「有効!」
 一本はとれなかったが、残り時間を考えれば、それで十分だった。そのまま3分間の試合が終了し、岡田が初優勝を遂げた。

「あのまま判定にもちこまれたら、確実に負けることはわかっていました。だから、もう攻めるしかないと思ったんです。がむしゃらにかけにいったら、たまたま大外が決まった。本当にギリギリの勝利でした」と岡田は振り返った。
 そして梶谷はこの勝利に教え子の成長を見てとった。
「高い素質はありましたが、入学当初はすぐに諦めるところがあったんです。でも、この試合で岡田は最後まで諦めなかった。勝ちたいという気持ちが相手よりもまさっていたんでしょう」

 岡田もまたこの試合で自分自身への成長を感じていた。
「いつもでしたら、負けていた展開でした。あまり体力がないので、どちらかというと後半にポイントを取られて負けるパターンが多かったんです。でも、全国大会に行く最後のチャンスだと思ったら、自分でもビックリするくらい積極的に技をかけにいけました」
 そして、岡田はその成長は梶谷によって引き出されたものだと思っている。
「もともとすぐに諦めちゃうタイプだったんです。でも、梶谷先生から練習でいつも『諦めるな』と言われていたので、精神的に強くなれたのだと思います」

 しかし、全国大会では初戦で北海道の選手に敗れてしまった。県大会決勝同様、組み手に勝ち、大外刈りをかけにいったものの、逆に相手にうまく返され、一本負けを喫したのだ。これには梶谷もガックリときたという。岡田の実力をもってすれば、確実にベスト16にはいくだろうと踏んでいたのだ。主審の「一本!」という声を聞いた瞬間、ショックのあまり梶谷はしばらくその場でボーッとたたずんだ。

 岡田もまた悔しさのあまり、試合後は涙が止まらなかった。その姿を見た梶谷は岡田にこう言った。
「結果は負けたかもしれないが、逃げたのではなく、勝負をしにいったのだからオマエがやったことは決して間違っていない。力を出し切ったのだから、胸を張っていいんだぞ」
 岡田はその言葉に救われたような気持ちがしていた。そして厳しくも充実した中学3年間が静かに幕を閉じた。

(最終回へつづく)

岡田晴菜(おかだ・はるな)プロフィール>
1988年4月9日、愛媛県生まれ。小学5年から柔道を始める。中学3年時には全国中学校柔道大会に出場。宇和島東高3年時には全日本ジュニア大会に出場した。2007年、帝京大学へ進学。1年春の合宿中に右ヒザ前十字靭帯を損傷し、2年間を棒に振った。昨年は全日本学生柔道優勝大会にメンバーの一人として出場し、優勝に貢献した。

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(斎藤寿子)
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