さる16日、巨人最高齢OBの前川八郎さんが呼吸不全のため死去した。享年97。またひとり“歴史の証人”がいなくなった。
 前川さんは職業野球連盟が創設された1936年、東京巨人軍に入団した。エースは言わずと知れた沢村栄治。前川さんより5つ年下だったが、ピッチングでは全く歯が立たなかった。目にもとまらぬ快速球と「懸河のドロップ」でバッターを切り切り舞いさせた。
 同僚の目に伝説のピッチャーはどう映っていたか。それが知りたくて今から11年前、インタビューを申し込んだ。前川さんへの取材は、これが2度目だった。快諾をいただき、大宮市(当時)の自宅に足を運んだ。

 話は聞いてみなければわからないものだ。実は前川さん、東京巨人軍入団前に沢村と対戦していたのである。当時の取材メモから前川さんのコメントを引く。
「昭和10年、東京ジャイアンツがアメリカ遠征から帰ってきて全国を回ったんです。もちろんエースは沢村。その頃、僕は東京鉄道管理局、通称オール大宮のエースでした。監督は後に巨人、阪神の監督を務める藤本定義さん。

 初めて対戦する沢村は、そりゃスゴかった。球は速い、ドロップは落ちる。こりゃどうやっても打てないと諦めました。
 で、ベンチの藤本さんを見ると“どんな球でも振ってこい”というサイン。どうせ打てっこないと思って、目をつぶって振りました。ところが手にボールが当たった感触があって、気がつくと打球はショートの頭を越えていた。半信半疑でファーストまで走りました。結果は二塁打でした。
 結局、この試合、このタイムリーがものを言って4対1でオール大宮が勝ったんです。まぁ信じられなかったですね」

 前川さんは東京鉄道管理局を経て巨人に身を投じる。沢村に次ぐ先発投手として3年間、巨人でプレーした。ちなみに巨人時代は後にエース番号となる「18」を背負っていた。
 同僚となった前川さんに、沢村はこっそり打ち明けたという。「実はね、あのドロップを打ったのは前さんが初めてなんですよ」。

 こんな贅沢な話を聞くことは、もう二度とない。歴史学や政治学の世界で近年、注目を集めている「オーラル・ヒストリー」のような手法で前川さんの証言をまとめることはできなかったものか。少々、悔いが残る。

<この原稿は10年3月24日付『スポーツニッポン』に掲載されています>
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