小学校3年生で地域のスポーツ少年団に入った赤井はFWとしてメキメキ頭角を現していく。背番号はエースストライカーの証である11番。他の同級生と比べればレベルは抜きんでており、良くも悪くも「チームの中で浮いた存在」だったという。実力を買われて小5で札幌市の選抜メンバーにも選ばれ、それがきっかけとなって地元の名門クラブ札幌サッカースクール(SSS)に入った。
 既にスターだった山瀬功

 しかし、そこで赤井は上には上がいることを知る。当時のクラブで最も輝いていた同級生、それが後に日本代表にも選ばれるMF山瀬功治(横浜FM)だった。
「うまかったですよ。プレースタイルは今ほどゴリゴリはしていないですけど、テクニックもあるし、ドリブルでの突破力もあった。小学生離れしていましたね。既に北海道では有名でしたよ。スター的な存在でしたね」

 そんな高いレベルのクラブ内では、スポーツ少年団では敵なしだった小学生も「普通のレベル」だった。「最初は試合に出られるポジションがサイドバックくらいしかなかったんで、DFもやりましたよ」。現在の赤井の持ち味である「どのポジションでもこなせる能力」は、少年時代の経験が下地となっている。

 中学までSSSでサッカーを続け、高校は地元の札幌光星高へ。当然、全国大会の常連だった室蘭大谷などの強豪校へ進む道もあった。ただ、当時の赤井には実家を離れてまでプレーをする気持ちはなかった。「札幌である程度、サッカーに力を入れているところなら」。札幌光星はかつてインターハイで全国3位になった実績もある。最後は自分の意思で進学先を決めた。

 高校でも赤井はすぐに力を発揮し、チームの主力選手となる。ボランチ、右サイド、左サイドと、中盤のポジションはどこでもこなした。「強いところとやっても自分のプレーができる。それは自信になりましたね」。3年生の時はキャプテンを務め、国体の北海道代表にも選ばれて、再び山瀬とともにプレーした。

 だが、残念ながらチームは全国大会にコマを進めるレベルではなかった。最後の大会となった高校サッカー選手権の県予選でも、初戦を7−0と圧勝しながら、2回戦は同年夏の全道大会準優勝校、函館大有斗に2−7と完敗。「前半は1−2で粘ったんですけど、後半に5点ブチこまれました。それは悔しかったし、悲しかったですね。みんなでロッカーに帰って泣きました。高校サッカーではありきたりな光景かもしれませんけど」

 自分が選んだ道だからベストを尽くす

 プロ入りへの夢は捨てていなかったが、予選で早々と敗退した高校の選手にJクラブからのオファーはなかった。大学は地元を離れ、仙台大へ。サッカー選手になれなかった場合の保険として、体育教員の道も視野に入れていた。札幌を離れて最も面食らったのは、夏の暑さだった。大学時代に主にやっていたポジションは3−5−2のウイングバック。攻守にサイドのスペースをケアしなくてはならず、豊富な運動量が求められる。
「大学1年の時、夏の大阪で東海大と試合をやった時は死にそうでした。前半が終わってハーフタイムの時には、もうバテバテ。あの暑さは初めての経験でした。体力もなかったんで、大学時代はよくコーチと一緒に走らされましたよ」

 仙台大は大学サッカーでは東北の雄とはいえ、全国的にみれば東海大、駒澤大、阪南大といった関東、関西勢の壁は高く厚い。全国大会では組み合わせの関係で、これらの大学と初戦で当たることも多く、赤井は1年時から試合に出ていながら、なかなか名前をアピールする機会に恵まれなかった。

「周りは“関東の強い大学に行ったらどうだ”という意見はあったんですけど、自分の能力と比較した時に自信がなかったんです。今から考えると、高校も大学も身の丈にあっていたと思いますね。まぁ、選んだ道が成功だったか失敗だったかは分かりません。でも、自分で選んだ道なんだからベストを尽くそうと、そんな考えでずっとやってきました」

 かのウィリアム・スミス・クラークが学生たちに「少年よ、大志を抱け」と発した土地で育まれた人間にしては、いたって赤井の選択は現実路線を行っている。着実に一歩ずつ。その生き方は攻守に堅実なプレースタイルそのものではないか。本人にそう水を向けると、笑顔で返された。
「いやいや、ビビリ屋なだけですよ。思い切って飛び込んでいけないタイプなんで(苦笑)」

 それでも小学時代から持ち続けた「プロサッカー選手になる」との思いは消えなかった。大学4年時には地元のコンサドーレ札幌や東北のモンテディオ山形など、複数のJクラブの練習に参加したが色よい返事は来ない。ならばと将来的にJリーグ入りを目指しているクラブに照準を定めた。当時、JFLでJ加入へ動いていた愛媛FCのセレクションを受けたのは、卒業も間近に迫った2003年12月のことだった。

「あのゴールがなかったら、どうなっていたか分からないですね」
 サッカー人生を左右したともいえるプレーが生まれたのは、そのセレクションだった。中盤でプレーしていた赤井がゴール前に詰めると、ちょうど右サイドから絶好のクロスが入った。胸でトラップし、ボールをうまくコントロールしながら得意の右足を振り抜く。次の瞬間、ボールはゴールネットに突き刺さった。鮮やかなボレーシュートだった。

 程なくして、赤井の携帯電話が鳴った。電話の主は愛媛の総監督を務めていた石橋智之だった。
「ウチに来てくれるか?」
 潰えそうだったプロサッカー選手への道に、一筋の光が見え始めた。

(第3回へつづく)
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赤井秀一(あかい・しゅういち)プロフィール>
1981年9月2日、北海道生まれ。ポジションはMF。札幌サッカースクールでは山瀬功治(横浜FM)らとともにプレー。札幌光星高から仙台大を経て、04年に当時JFLだった愛媛に加入。サイドもボランチもこなし、堅実なプレーでクラブに貢献している。07年からの3シーズンで欠場はわずかに4試合。09年も最多の50試合に出場し、中盤には不可欠な存在となっている。昨季から副キャプテンも務める。J2通算166試合、19ゴール(昨季終了時)。173センチ、66キロ。




(石田洋之)
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