デンソーカップで代表に選ばれた阿部は、だんだんとJクラブから注目される存在となっていた。その中でも阿部の才能を最も評価していたのはFC東京。特に当時クラブを率いた原博実は、FWとしての阿部の才能を買っていた。
 選抜メンバーでの練習試合で4得点を挙げた阿部は、FC東京から声をかけられる。入団の内定をもらったのは2002年6月。その時点でJリーグに出場するように誘われたが、流経大でのリーグ戦も残っており、11月の天皇杯からプレーすることとなった。内定を受けた時点から練習に合流していた阿部は、自分はどこまで通用するのか、不安に感じたという。「まずはこの中で生き残っていかなければならない」。試合に出るまで時間があったため、Jリーガーたちの実力を練習の中で感じながら、11月のデビューを待った。

 初めてプロのピッチに立った天皇杯の湘南ベルマーレ戦。阿部はいきなり2得点を上げ結果を出した。ただ、プロとしての第一歩を記した阿部はこれまで感じたことのないプレッシャーを感じたという。
「試合が始まる前の重圧に驚きました。練習には参加していたので、プロのレベルはわかっていたつもりでしたが、試合に出場するプレッシャーは感じた事がなかった。スタメンの表をみると、選手ごとに出場試合数が出ていますよね。中には200試合以上出場している人もいる。“毎試合、こんなプレッシャーを受けながら、何年もプレーしているのか”と、プロ選手のすごさを感じましたね」

 名監督はプラスアルファを引き出してくれる

 阿部が入団した当時のFC東京にはアマラオや福田健二というFWがおり、彼らからサッカーに対するストイックな精神や真面目な姿勢を学んだ。さらに、指揮官の原との出会いは阿部にとって非常に大きいものだった。原は日本代表として37得点を挙げた名ストライカーだが、ルーキーの阿部にも毎日のようにシュート練習に付き合ってくれた。そんな人物に徹底指導を受ければ、選手がやる気を出さないわけがない。

「原さんは本当に選手の立場になって物事を考えてくれる監督で、試合中にミスがあっても、それを言ってきたりしない人でした。もちろん犯してはいけないような簡単なミスや集中力の欠いたプレーをすれば、しっかりと指摘されますが、選手がわかっているようなミスについては何も言わない。だからこそ、僕らもしっかりやらなければいけないと感じました。この人のためにがんばろうと思うような人ですね」

 阿部が原について、「この人のためにがんばろうと思える監督」と口にしたように、現在、湘南ベルマーレを率いる反町康治についても同じように感じるという。08年北京オリンピック日本代表を率いた反町が湘南にやってきたのは09シーズン。五輪代表を率いた指揮官に対し、湘南の選手たちは期待するものが大きかった。「何かチームを変えてもらえるのでは?」と思っていた。しかし、反町は就任直後に「自分たちが変わらなければ何も変わらないぞ」と口にした。阿部はこの言葉に、反町のプロフェッショナルな雰囲気を感じた。

「ソリさんは選手に対して非常にやわらかく接してくれる人です。まず選手のことを第一に考えてくれます。“選手は何をすべきかわかっているはずだから、何でも自分で判断しよう”と言ってくれる。本当に選手を信頼してくれます。だからこそ、それに応えなければいけないと思うんです」

「プロに入って、原さんとソリさんに出会えたのは幸運」と答えた阿部。自分の実力以上のものを出すためには、プラスアルファの力が必要になる。それを引き出してくれたのが原であり反町だった。2人のプロの指揮官との出会いは、阿部のプロ生活の中で、実に大きな出来事だった。

(第3回へつづく)
>>第1回はこちら
>>第3回はこちら
>>第4回はこちら

(写真:(c)SHONAN BELLMARE)

<阿部吉朗(あべ・よしろう)プロフィール>
1980年7月5日、愛媛県新居浜市生まれ。小学3年時からサッカーを始め、常総学院高校を経て流通経済大学へ。関東大学リーグ2部に所属するチームで頭角を現し、大学4年次には日韓定期戦メンバーにも選出される。02年11月、FC東京と契約、大学在学中に天皇杯でデビューを飾る。その後、大分、柏を経て、08年にJ2・湘南ベルマーレに移籍。昨年は48試合に出場し10得点。特に最終節水戸ホーリーホック戦で2得点を上げ、クラブのJ1復帰に大きく貢献する。10シーズンは先発出場の機会が増え、4月25日ベガルタ仙台戦で、自身にとって4年ぶりのJ1ゴールを決めている。Jリーグ通算186試合出場、32ゴール(10年4月30日現在)。174センチ、72キロ。




(大山暁生)
◎バックナンバーはこちらから