たとえばアストロズの松井稼頭央は解雇されて、現在ロッキーズ傘下のマイナーでプレーしている。今季パイレーツに移籍した岩村明憲は、松井同様に不振が続いている。別に、松井稼や岩村にメジャーリーグで活躍する能力がないと言っているのではない。松井稼ならロッキーズ時代、岩村ならレイズ時代に、輝いているシーズンもあった。このような状況を、彼らはメジャーに「消費されている」と表現してきた。
その一方で、むしろメジャーを制圧し、君臨し続けている選手もいる。イチローである。オールスターのファン投票でもアメリカン・リーグの外野手部門で1位をキープし、メジャーでも特別な名選手と認められている。
そのイチローが珍しく2試合連続で無安打に陥った次の試合のことである。
5月28日のマリナーズ対エンゼルス戦。エンゼルスの先発はメジャー屈指の左腕スコット・カズミア。3回2死の場面。7球目を打った打球は詰まったように見えた。それがいわばハーフライナーとなって内野手の守備範囲を越え、センター前ヒット。
続く5回にも、同じように詰まり気味のハーフライナーが、ショートの頭を越えて、レフト前ヒット。この日、これが本来のイチローだといわんばかりに4打数2安打を記録した。
イチローの打撃技術の深奥など、とても私ごときにはわからないが、想像できることはある。2試合無安打が続き、どうしてもこの試合ではヒットを打っておきたい。だから、計算ずくで詰まらせて、内野と外野の間に打球を落としたのだろう。この計算しつくした詰まり方が、イチローの技術の真髄なのだろう。
試合後のコメント。
「芯に当ててしかヒットにできない選手は、やっぱ人よりも打てないですよ」
この言葉には、イチローの思想が深く刻まれている。
さて、イチロー同様、「天才」という、とても安易な形容詞で語られるもう一人の打者に、前田智徳(広島)がいる。去年は故障で一軍の出場はなし。今季も守備につける状態ではないようで、代打、DHの出場が続いている。
こんなシーンがあった。
5月21日の福岡ソフトバンク対広島戦。試合はカープ先発前田健太が好投し、打線も活発で5−0とリード。8回表、前田智の第4打席は、無死一塁でまわってきた。投手は左腕・陽耀勲。
その1球目。アウトローへ145キロのストレートが行ったと思った瞬間、打球はきれいなライナーとなってヤフードームのライトスタンドに突き刺さった。
面白いのはその瞬間の光景である。いわば、球場全体の音がオフになったのである。その後一拍おいてライトスタンドのどよめきとレフトスタンドの大歓声がわきおこった。
なぜ、一瞬の沈黙が訪れたのか。おそらくは、前田のスイングが、あまりにも真芯でボールをとらえたからである。それは、この世から音が消えるような非現実的な瞬間だったのだ。カーンというよりも「カチッ」という打撃音が耳に残る。
真芯であることに、球場全体の沈黙を強いるようなスイング。ここに、前田智という打者の思想がある。
あえて芯を外して詰まり方の角度や度合いまで計算し尽すのか、真芯を打ち抜こうとするのか、これは優劣でも正邪でもなく、二つの確固とした打撃思想と言わねばならない。
ところで、もう一人、「天才」という形容詞で語られる打者がいる。ジョー・マウアー(ツインズ)である。去年は、イチローに競り勝って首位打者を獲得し、リーグMVPにも輝いた。史上最高の捕手とまで言われる。
イチローや前田智と違って、彼はほとんどノーステップで打つ。どのコースでも確実に強打する。
印象的なのは、左打者のマウアーが、アウトローいっぱいのボールをレフトに打つ打撃である。ボールが右ヒザの位置に来るくらいまで、ぎりぎりまでひきつけて、レフト方向に叩く。
ここには、イチローとはまた違う打球がある。すなわち、野手の捕れないところに正確に測って打つというのではなく、強く叩くのである。
「狙っている球がきたら打ち返す。狙っていない球は見逃す。バッティングは、シンプルに考えている」
そうコメントしている。これは言えるようで言えない言葉だろう。つまり狙った球は全て強く打ち返すことができるという確信に裏打ちされた発言なのだから。
ここで再び、媒介項として、前田智の打席をあげてみる。
6月2日、北海道日本ハム対広島戦。2−0と日本ハムリードで迎えた7回表の広島の攻撃。2死一、二塁となって、代打・前田智が登場した。投手はここまで3安打無失点と好投してきた新人・増井浩俊である。
カウント2−2から増井が投じたアウトロー、146キロのストレート。前田智は、このボール気味の低い外角球をきっちり芯で拾い、そしてスイングして一、二塁間をゴロで破ったのである。
これがマウアーだったらどうだろう。おそらくレフト線に強い打球を打ったのではないだろうか。
イチローだったら、やはり、センター前かレフト前に計算通りに運んだのではないか。
イチローは、野手の捕れない打球を打つ。それが偶然ではなく、すべて計算された技術によって行われている。その意味において、「ヒットを打つ人」と言える。
前田智は、もちろんヒットを打とうとしているのだろうけれども、それよりも「芯で捉えてスイングする人」である。
そして、マウアーは「来たボールを強く打ち返す人」である。
この三つの思想は、それぞれに、常人にはおよびもつかないほど深い。なぜ、深いと簡単に断言できるのか。三者とも、それぞれに極めて美しい打撃フォームだからである。美とは技術の究極の深みにこそ宿るものなのだ。
上田哲之(うえだてつゆき)プロフィール1955年、広島に生まれる。5歳のとき、広島市民球場で見た興津立雄のバッティングフォームに感動して以来の野球ファン。石神井ベースボールクラブ会長兼投手。現在は書籍編集者。
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