海の向こうに怪物が出現した。それも超弩級の怪物が……。
 昨年、メジャーリーグのドラフト全体の1位でワシントン・ナショナルズに入団したスティーブン・ストラスバーグである。
 彼の売りは、なんといっても100マイル(約160キロ)を超す速球である。とはいえ、速いだけでコントロールのかけらもない剛球投手は数多い。どうせそういうタイプなのだろうと高をくくっていたら大違いでした。
 まず、思ったより体が細い(これは大学時代の徹底した走り込みの成果だという。といっても発表されている体格は193センチ、100キロだが)。たとえば、ヤンキースのネヴィル・チェンバレンみたいに、ものすごくごつい上体を利して、力づくで投げ込むのとは訳が違う。
 きっちり足を上げ、下半身の力を上体に伝える形で投げるのである。
 ひと言で特徴を言えば、腕の振りが鋭い。同じ人間なのによくあれだけ速く強く腕が振れるものだとあきれるくらい鋭い。これが球速を生み出す秘密だろう。
 なにしろ、普通に投げたストレートが97〜98マイル。すなわち157〜158キロ。ちょっと力を入れると160キロを超える。下半身主導のフォームだから、コントロールもある。

 しかもカーブがおそろしく鋭い。えっ、スライダーじゃないの? と言いたくなるくらい、打者の手元で急激に落ちるのだが、本人はカーブといっているらしい。これが右打者の外角に決まったら、まず空振りするほかない。
 彼のデビューは、今季の全米スポーツ界の最大の関心事の一つだったというのもうなづける。
 なによりいいのは、三振をとろうとする意志が見てとれることだ。三振をとるには、少なくとも一人の打者に3球以上要する。つまり、球数が増える。先発は100球まで、球数は少ないほど偉いという風潮のメジャーリーグにあって、事実上、その思想に逆行しようとしている。だからこそ、球場全体の興味が、彼の投球に集まる。その意味で、球場を制圧できる投手である。
 いいなあ。だから野球観戦はやめられない。

 ところで、わが日本球界にも今季、大化けした投手がいるのをご存知だろうか。オールスターのファン投票で、12球団1位の得票数を獲得したから、先刻ご承知かもしれない。広島カープのマエケンこと前田健太である。
 今季の交流戦の成績は、セ・リーグからみれば無残なものであった。なにしろ1位から6位までがパ・リーグ、7位から12位までがセ・リーグなのだから。「実力のパ」といわれても、誰も何も反論できないだろう。
 ただし、前田健には反論する資格があるのである。なにしろ交流戦の防御率が1点台で、12球団トップなのだから。今や、ダルビッシュ有(北海道日本ハム)より岩隈久志(東北楽天)より涌井秀章(埼玉西武)より上と言うことさえできるのだ。

 前田健を初めて見たのは、PL学園のエース兼4番として出場した2006年のセンバツである。球速にして140〜141キロくらいだったのではないだろうか。さすがPLのエース、いい球を投げるな、という印象だった。
 ドラフト1位でカープに入団。1年目は2軍でローテーションの柱として投げたという。実はファームの前田健は見ていない。
 2年目のオープン戦。前田健は引退した佐々岡真司の背番号18を引き継ぎ、ローテーション投手として期待された。
 オープン戦初先発の試合は、大いに期待して見た。そしてとてもがっがりした。ボールが遅いのだ。せいぜい135〜138キロ。結構、痛打を浴びたと記憶する。唯一の活路が大きく割れ落ちるカーブだった。これはおれが知っているPLの前田健ではない、と思わずつぶやいた。

 それでも2年目、3年目と一軍のローテーションに定着する。大きなカーブとチェンジアップを武器に、なんとか持ちこたえる姿がむしろ痛々しいくらいだった。
 ただし、少しずつ成長しているようには見えた。球速も140キロ台には乗るようになり、昨季は準エース格として8勝を挙げた。
 地元の期待は大きかったかもしれないが、悪く言えば、せいぜい7〜8勝から10勝止まりのローテーション投手という印象を持っていた。それでも、コルビー・ルイスが抜け、大竹寛が故障した今季のカープにあっては、彼をエースと頼むしかない。
 驚いたのは今年の4月である。3勝したのだが、どの試合でもいい。とにかくストレートが速いのである。しかも、うなりをあげて伸びている。これ、もしかして150キロを超えるんじゃないかと思っていたら、現に何回も151キロの表示が出た。化けたのである。
 彼にいったい何が起きたのか。

 たまたま見たテレビのニュース番組のインタビューが非常に面白かった(どの番組か失念してしまいました。申し訳ありません。彼の言葉を引用させていただきます)。
 きっかけについて。
「東京ヤクルト戦で田中浩康さんから三振をとったときのストレート」
 このボールを投げたときに、ストレートを投げる極意がわかったというのだ。ではその極意とは?
「ゼロから100です」
 つまり、ふりかぶって、足を上げて、バックスイングからボールを投げにいくまで、全ての動作において、ボールを持った手にかける力はゼロ。そして、ボールを放す瞬間、いきなり100の力を出す。
 少なくとも、彼自身の体の感覚としては、そういうことであるらしい。

 実際に見ていて感じるのは、足を上げたときに、一回静止に近い間をつくってから、ズドンと投げていく。この間がきっと「ゼロから100」を生み出す元になっているのだろう。
 そして、きれいに上から下に腕を振る。いわゆる4シーム、本来のストレートである。その分、ボールに伸びがある。
 前田健はストラスバーグと違って、本当に細身である(発表では182センチ、73キロ)。たとえば5月15日の日本ハム戦(完投勝利)から試合ごとに並べていくと、球数は、121、121、138、111、143、110……。明らかに投げ過ぎである。当然、疲れも出てくる。最近は、ストレートが150キロを超えることはなくなった。142〜143キロに終始している。
 おそらくは、計算してやっているのだろう。スピードは肝腎なときにだけ出せばよい。彼はどうしても1年間、ローテーションを守らなければならないのだから。

 たかだか142キロのストレートでよく防御率1点台を維持していられるな、と疑問に思いませんか。今季は、昨季までとまた一味違う武器がある。
 スライダーだ。このところの前田健の投球は、とにかく困ったらスライダーである。
 スライダーもまた化けたのだ、と言いたい。もちろん昨季までも投げていた。しかし、今季は打者の手元まで真っすぐに行って、フッと曲がる。曲がり始めるのが遅くて、しかも鋭いから、打者は、わかっていても打てない。まさにマエケンの生命線になっている。

 さて、論じてばかりいても退屈でしょう。1失点完投で10勝目をあげた7月1日の巨人戦を紹介しよう。
 あの巨人打線を4安打8奪三振。1番坂本勇人から6番長野久義までを無安打に封じたのだが、100球を超えて上がった9回裏のマウンドが印象深い。
 まず、2番に代打・高橋由伸。前田健はあきらかに完投勝利を狙っている。高橋にはスライダーを投げておけば大丈夫、とふんだのだろう。だからスライダーを連投してファウルフライ。相手を見下ろした投球。
 1死で3番小笠原道大。ここが最後の正念場である。

?スライダー  インコース低め     空振り(小笠原独特のものすごいスイング)
?ストレート  アウトコース低め    ボール  142キロ
?ストレート  インコース低め     ボール  145キロ(えー、ボール?)
?スライダー  インコース       ファウル
?スライダー  アウトコース低め    ボール (おしい!)
?ストレート  インコース高め!    空振り三振  144キロ

 まず、初球。左打者のインローに鋭く曲がり落ちるスライダーは、左打者がもっとも打ちにくいボールだとされる。去年までのカープのエース、ルイスはこの球で三振の山を築いたが、それに匹敵するボールで、まずストライクを取ろうとしている。ただし、小笠原の空振りも寒気がするくらい激しいスイングである。
 2球目は、セオリー通り、アウトローのストレート。大事に行き過ぎて低く外れた。そして3球目。内側をスライダー、外側をストレートでせめた後、インハイいっぱいのストレート。まさにぎりぎりいっぱい。球場全体がどよめく。おしいっ、という感情が見る者を支配する。要するに、球場が盛り上がる。がんばれ、マエケンと言いたくなる。そういうボールが投げられるところが、彼の人気の秘密なのだろう。

 4球目のスライダーでカウントを整える。2−2。さあ、どうやって三振をとるのか。
5球目に投げたのは、なんと外角のボールゾーンからストライクゾーンに曲がり落ちるいわゆる“外スラ”だった。これも3球目同様、入ったように見えた。えー、ボールかよ、アンパイア? おしいなあ、マエケンやるなあ、思わずそういう感情移入をしてしまう。
 それにしても、110球を超えて、この日、これまでほとんど見せなかった左打者に対する“外スラ”を、あれだけのコントロールで投げられるとは。
 で、6球目はどうするんだ? スライダーか? チェンジアップか? わずかにサインに首を振って、足が上がって、投げた〜。インハイ、ストレート、空振り三振!
 最後の最後で、あの小笠原から高めのストレートで空振りを奪う。それだけ、ボールに伸びがあるという証拠である。もはや、“正しいストレート”と呼びたい。
 ついでに、最後の打者、4番ラミレスは、アウトローのスライダーで空振りをさせたあと、またしても、インハイのシュート気味のストレートでどんづまりにつまらせ、ショートゴロ。試合終了。

 マエケンはなぜ、ファン投票で12球団一の得票を得るほどに人気が出たのか。この小笠原に対する6球にその答えは詰まっていると思う。投手としては小柄の部類に属する体。その全体を使った、非の打ち所のないフォームから繰り出されるストレートとスライダーは、いわば正しく伸び、そして曲がる。その過程は、見ていて確かに快感がある。そこには、小よく大を倒す、という日本人好みの物語を見て取ることもできるかもしれない。しかしそれよりも、たとえば、3球目、5球目のスライダーや6球目のストレートが宿していた、投手のボールだからこそ表現できる、ボール本来の魂のようなものが、見る者を惹きつけるのではないか。 
 これこそ、日本野球の華、と私は言いたい。

 最後に、マエケンにイチロー張りのルーティンワークがあるのをご存知だろうか。カープファンなら誰でも知っていることだが、彼はイニングの合間、登板の直前に、ベンチ前で独特のストレッチ運動をする。
 まず、両腕を水泳のクロールのようにぐるぐるする。それから両腕を左右に広げ、ヒジを曲げたまま何かを持っているような形で上下させる。
 おそらくは肩関節の柔らかさのなせる業だろう。このストレッチさえも見ている者をうならせる。
 ストラスバーグには、メジャーリーグが本来もっていた剛球投手の系譜を正統に継ぐだけの素質がある。彼は、ノーラン・ライアンやランディ・ジョンソンのような存在になる可能性がある。そして、ストラスバーグがシーズン中にへばることはないだろう。剛のストラスバーグ、柔のマエケン。気になるのは投球過多による蓄積疲労だけである。願わくば前田健太も、球威を失うことなく、シーズンを乗り切って欲しい。

上田哲之(うえだてつゆき)プロフィール
1955年、広島に生まれる。5歳のとき、広島市民球場で見た興津立雄のバッティングフォームに感動して以来の野球ファン。石神井ベースボールクラブ会長兼投手。現在は書籍編集者。
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