7月。いよいよ夏本番の季節だ。今年も甲子園を目指して球児たちの熱戦が繰り広げられる。
 4年前、宇高幸治もまた高校野球の聖地を目指し、白球を追い続けていた。愛媛県立今治西高校。同校野球部OBで、甲子園に出場したことのある父親を追い越したいと入学したものの、3年春まで一度もたどり着くことができなかった。
「遠いなぁ……」。宇高は改めて甲子園への道のりの厳しさを痛感していた。
「(愛媛で)今年甲子園に出場した高校に行く」
 中学3年時、宇高はそう周囲に語っていたという。本人いわく、特に理由はなく、何気なく言った言葉だった。しかしその年、愛媛県大会を制したのは今治西だった。彼が尊敬してやまない父親の母校だ。
「僕は小さい頃から父と同じユニホームを着て甲子園に出ることが目標でした。だから、もしその年、他の高校が甲子園に行っていたとしても、結局は今治西に行っていたと思います。でも、偶然にも優勝したのは今治西だった。やっぱりそこに行く運命になっていたのかもしれませんね」

 中学3年の最後の大会が終わると、宇高は父親が指導するチームに入った。そこでは宇高と同じく軟式出身の子供たちが、高校でスムーズに硬式へと移行できるように指導が行なわれていた。そのため、彼は高校入学後、硬式球への恐怖心は全くなかった。それどころか、先輩の練習を見て自信を深めていた。
「体は随分、大きいなあという印象はありました。特に僕が1年の時の3年生は180センチくらいあるような長身の選手が揃っていたんです。でも、技術的なレベルに対しては驚きはありませんでした。逆に“よし、これなら自分もやれる”と思ったほどです」

 小学校時代から地元では名を馳せていた宇高は、入学早々、グラウンドの横で声出しやボール拾いする1年生の輪から離れ、グラウンドの中で先輩と一緒に練習するようになっていった。そして夏、県大会を前に行なわれたベンチ入りメンバーの発表で、宇高は15番目に名前を呼ばれた。だが、特別な喜びも驚きもなかった。ベンチ入りは想定内のことだったからだ。

 その年、今治西野球部は100周年というメモリアルイヤーに沸いていた。当然、周囲は前年に続いての甲子園出場に大きな期待を寄せていた。ところが、フタを開けてみれば、まさかの初戦敗退。あまりにもあっけない幕切れだった。
「相手の松山東はお祭野球みたいな感じで、ワイワイとうるさかったですね。それに僕らのチームは完全にのまれていました。スコア的には3−4と1点差だったのですが、内容は完敗でした。正直言って、その年のチームはそれほど強くはなかったのですが、それでも、まさか初戦で負けるとは思ってもいませんでしたね。“今治西でもあるんだな”と高校野球の厳しさを目の当たりにしたような感じでした」

 その一方で宇高はこうも思っていた。
「オレを使っていたら、負けなかったのに」
 表情はまだ少年のようなあどけなさが残り、口調も物腰柔らかく、どちらかといえば、おっとりとした雰囲気が印象的な宇高だが、こと野球になると、強気の姿勢を崩さない。

 新チームでは早くも4番に抜擢された。しかし、1年生主体のチームは、秋季大会、県大会準々決勝で敗退した。なかなか甲子園への道は見えてこない今治西に転機が訪れたのは、翌春のことだった。指揮官が大野康哉監督に替わったのだ。前任監督とは異なり、練習のうち7割は守備というほど、守り重視の指導だった。
「1年の時の監督さんは、10点取られたら11点取り返せ、という指導でした。ところが、大野監督は取るのは1点でいいから、0点に抑えろと。最初はあまりの変わりように、チーム全体がとまどったと思います」

 しかし、チームは確実に強くなっていった。今治西野球部OB、33歳の青年監督の指導はエネルギーに溢れていた。
「大野監督は僕たちに、もっと気持ちを前面に出せ、といつも言っていました。練習ではいつも怒鳴られていましたけど、そこで引いてはダメなんです。逆に向かっていくくらいの気持ちでなければいけない。もし、引いてしまったら、それこそレギュラーを外されるくらいの緊張感がありました」
 それまでは監督に叱られると、すぐにシュンとなっていたような選手が、徐々に負けん気を見せるようになっていった。宇高は、秋には全く見えなかった甲子園が、少し見えてきたような気がしていた。

 そして迎えた夏、初戦は大洲高に9−1で7回コールド勝ちと、幸先のよいスタートを切った。宇高も初回に先制タイムリーを放ち、4番の役割をきっちりと果たした。2回戦、3回戦を順当に勝ち、準々決勝で新田高と対戦した。初回、いきなり3点を先制された今治西は2回にすぐさま1点差に詰め寄った。しかし、新田は2回以降も着実に加点し、今治西は後手にまわるかたちとなった。後半は投手戦となったものの、結局序盤での2点差を追い上げることができなかった。
「僕自身、満塁の場面で打つことができませんでした。ここで打てば一気に逆転と押せ押せムードだったのに、三振してしまったんです。守備でもタイムリーエラーをしてしまった。試合に出場していなかった1年生の時とは比べものにならないくらい悔しかったですね。と同時に、先輩に申し訳ないという気持ちでいっぱいでした」 

 新チームとなり、宇高はキャプテンに抜擢された。個々の能力は高いものを持っていたものの、個性が強く、なかなかチームとしてもう一つまとまりきれずにいた。そんな彼らを尻目に県のトップに台頭してきたのが、同じ市内にある今治北だった。宇高ら今治西は、200メートルしか離れていない新興勢力を前に苦しい戦いを強いられることになった。
 秋、その今治北に県大会準々決勝で敗れた。今治北はそのまま四国大会でも決勝進出を果たし、春夏通じて初の甲子園に出場。その甲子園でも初勝利を挙げ、勢いづいていた。

 一方、今治西は夏に向けてトレーニングに励んでいた。その厳しさは言葉ではとても言い表せないほどのものだった。
「冬場、強化合宿を行なったときなんかは、1日素振り3000回を毎日やりました。でも、何よりきつかったのは海岸でのランニング。それでなくても走りにくい砂浜の上を、『走れ!』って言われて、ずっと走らされたんです。いつ終るのか、全くわからない。とにかく監督が終わりと言うまで、全員で声を出して走り続けました。そのうち遅れ始める選手もいたのですが、僕自身、もういつ倒れるかっていうくらいでした。キャプテンだったので一番前で走っていたのですが、本当にきつくて足が前に出ないんです。後ろのやつに背中を押してもらって、やっとやっと走っていました」

 しかし、厳しいトレーニングはチームを確実に強くしていた。春、今治西は県大会で優勝した。甲子園に出場した今治北との県代表順位決定戦では再びライバルに土をつけられたものの、四国大会では3年ぶりに王者に返り咲いた。その後、練習試合でもほとんど負けることはなかったという。
「冬場のトレーニングで、特にメンタル面が鍛えられました。それに、練習を通してチームが一つになれた。みんな同じ方向を向いて、気持ちが一つになっている感じがありました」
 確かな手応えをつかみ、宇高はいよいよ甲子園へのラストチャンスに臨んだ。

(第2回につづく)

宇高幸治(うだか・こうじ)プロフィール>
1988年4月5日、愛媛県今治市出身。小学2年から日吉少年野球クラブで野球を始めた。今治西高では1年夏からベンチ入りし、同年秋より4番に抜擢される。3年時にはキャプテンとしてチームを牽引。夏の甲子園ではベスト16入りを果たし、自身も2本のホームランを放った。高校通算本塁打数は52本。進学した早稲田大では1年春からベンチ入りし、レギュラーに定着した2年春、秋にはベストナインに選出された。今春、慶應大との優勝決定戦では公式戦初ホームランを放った。







(斎藤寿子)
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