宇高幸治が初めて甲子園に行ったのは小学生の時だ。両親と3つ上の兄と4人での家族旅行。幼いながらも、自分よりもはるかに背の高い球児たちを見る目は真剣そのものだったと、父親は語る。
「小さい頃から幸治は試合をじっと観ている子でしたね。普通だったら飽きて、他の遊びをするでしょう。でも、幸治は友達にちょっかいを出されても、観るのをやめようとしなかった。甲子園でも、食い入るように観ていましたよ。根っからの野球小僧なんですよ」
 いつしか時は流れ、宇高自身が高校球児となり、甲子園を目指した。しかし、追いかけても追いかけても、なかなか手が届かない憧れの舞台。そして2006年夏、いよいよ甲子園への切符をかけたラストチャンスを迎えた。
 その年の春、四国大会を制し、勢いに乗っていた今治西は前評判通りの強さで県予選を順当に勝ち進んだ。その中で苦戦を強いられたのが、3年連続で夏の甲子園を狙っていた済美との準決勝だった。今治西は7回まで変化球主体にリズムよく投げる済美のエース沢良木喬之(日本文理大)の前にゼロ行進。6回までは三塁さえ踏むことができなかった。だが、野球の神様は気まぐれである。

 2点ビハインドで迎えた8回表、試合中はいつも冷静な大野康哉監督が突如、選手に怒鳴り始めた。
「オマエら、ここで終わるんか! オマエらがやってきたことはこんなもんか!」
 しかし、指揮官の怒声もむなしく、簡単に2死をとられ、ランナーを出せないまま打順は宇高にまわってきた。
 スコアボードを見ながら「これが最後の打席になるかもしれない」と覚悟しながらバッターボックスに入った。結果は空振り三振。力みからか、バッターボックスまで届かず、手前でワンバウンドしたボールを思わず振ってしまったのだ。ところが、これをキャッチャーが捕りそこない、ボールは転々とファウルグラウンドへと転がっていく。宇高はすぐさま一塁へとかけこんだ。

「三振振り逃げ」――。これが反撃の狼煙になるとは、この時はまだ誰も気づいていなかった。次打者がライト前安打を放ち、一、三塁とすると、さらに走者一掃の2点タイムリー。この回で同点に追いついた今治西は、9回に一挙5点を奪い、逆転に成功したのだ。
「あの振り逃げが自分の野球人生を変えた」
 宇高は今もそう思っている。

 甲子園まであと1勝。決勝の相手は因縁のライバル、今治北だった。新チームとなり、宇高がキャプテンに就任して以降、今治北との対戦成績は0勝2敗。しかし、宇高は自信に満ち溢れていた。
「僕もチームも特に気負いはありませんでした。普段通りにやれば大丈夫と、もう勝つことしか考えていませんでした」
 果たして試合はワンサイドゲームとなった。今治西は初回に宇高の犠牲フライで先取点を挙げると、その後も次々と得点を重ね、9回までに11得点を叩き出した。投げては2年生エースの熊代聖人(王子製紙)が毎回のようにランナーを出しながらも粘りのピッチングで8回まで今治北を2失点に抑えた。

 9回裏、熊代が簡単に2死を取ると、今治西のベンチが動いた。熊代に代わってマウンドに上がったのは、その夏、一度もマウンドに上がることのなかった山本大輔だった。今治北との2試合は、どちらも山本が敗戦投手となっていた。
 実は9回表、今治西の攻撃時に宇高は大野監督にベンチ裏に呼ばれていた。
「最後は大輔でいこうと思うんやけど、どうや?」
 突然の相談に宇高は驚いたが、「監督さんにお任せします」とだけ告げた。
「正直、3回戦からずっと一人で投げてきた熊代に優勝の瞬間を味わせたいという気持ちもありました。これは試合後に聞いた話ですが、既に熊代は快諾していたらしいんです。練習でも投手陣の先頭を切ってやっていたのが大輔だったみたいですね。もう彼は、マウンドに上がる前から泣いていましたよ」

 山本が投げたスライダーを打者がひっかけ、打球はショート宇高のところへと転がってきた。
「最後のバッターは僕の幼なじみで小学校、中学校とずっと一緒にやってきた仲だったんです。前年の秋、そいつの3ランで僕たちは負けました。そんな因縁もあって、なんとなく最後は自分のところに来るだろうなと。いえ、こっちに飛んでこいと思っていました」
 宇高は落ち着いてさばき、一塁へと送球した。一塁塁審の右手が上がるやいなや、皆、喜び勇んでマウンドに駆け寄った。最後の最後にようやく掴み取った夢の切符。宇高はただただ、嬉しくて仕方がなかった。

 野球の怖さを知った夢の舞台

 5日後、宇高たちは甲子園のグラウンドにいた。開幕前の公式練習。スタンドからは何度か見たことがあるものの、初めて甲子園の土を踏んだ宇高は感慨深いものを感じていた。
「すごいな、これが甲子園か。やっと、来れたんだ……」
 思った以上に広さを感じた甲子園だったが、いざバッティング練習をすると、意外と簡単に打球が伸びていった。「こんなものか……」。打球の勢いは、宇高の調子の良さをうかがわせていた。

 8月9日。宇高の希望通り3日目に初戦を迎えた今治西は、春夏と優勝経験をもつ甲子園常連校の常総学院(茨城)と対戦した。先制したのは常総学院だった。2回表、2死一、三塁の場面、盗塁を試みた一塁ランナーを刺そうと、キャッチャーが二塁へ送球するも、これを二塁ベースカバーに入った宇高が後逸。すかさず三塁ランナーがホームへ返り、常総学院に待望の先取点が入った。バックスタンドの観客が着ていた白いシャツとボールが重なり、一瞬、見失ってしまったのだ。

 しかし、これで終わる彼ではない。3−3の同点で迎えた3回裏、無死一塁の場面で初球、外角高めのボールを思いっきり叩くと、ボールはライトスタンドへと入った。勝ち越しの2ラン。しかも自身初めてとなる逆方向へのホームランだった。
「初回の1打席目、2死二塁のチャンスに空振り三振をしてしまったんです。原因は試合前に用意されたデータを信じすぎたこと。やっぱりデータはデータ。それよりも、自分の持ち味である積極さを大事にしていこうと。だから2打席目は無心で、とにかく振っていこうと思っていました」

 地鳴りのように響く歓声の中、宇高は甲子園のダイヤモンドを一周した。高校時代に放った52本のホームランのうち、この時の一本が彼にとっては最高だったという。
「あの時の感触は今でもよく覚えていますよ。ボールがバットに当たってからもずっとひっついているような感じでした。振り抜いたら、グーンと伸びていきました。もう打った瞬間、行ったなと思いましたね」

 アルプススタンドでは父親が息子の活躍に喜びを爆発させていた。
「幸治のエラーで相手に先取点が入ったときには、思わず下を向いてしまいました。初回の1打席目には三振しているし、どうなるんかいな、と思って心配しとったんです。でも、このホームランで頭を上げることができました」
 主将の一発で勢いに乗った今治西は、効率よく得点を積み重ねていった。終盤には常総学院も満塁ホームランが飛び出すなど激しく追い上げを図るも、今治西が逃げ切るかたちで初戦を白星で飾った。

 2回戦の文星芸大付(栃木)戦は先発全員安打となる17安打の猛攻で快勝した今治西は、3回戦へとコマを進めた。「これだけ打てるなら、いけるぞ」。宇高たちの頭にはもう優勝の二文字しか見えていなかった。
 試合前日、宇高は監督室に呼ばれた。
「明日は熊代じゃなくて、新居田(浩文)でいこうと思うんやけど、どう思う?」
 宇高は迷うことなく答えた。
「自分は監督が決めたことに従います」
 県大会からの疲労を考えれば、エースを休ませないわけにはいかなかった。翌日、先発のマウンドには新居田が上がった。
 
 しかし、新居田は初回に日大山形に4点を取られ、1回もたずに降板。2番手の浜元雄大も制球が定まらず、追加点を奪われた。それでも今治西も必死に喰らいつく。3点ビハインドで迎えた7回にはホームランなどで逆転に成功した。だが、すぐに追いつかれ、同点のまま試合は延長戦へと突入した。
「おもしろくなってきたな」
 今治西のベンチではそんな声すら上がっていた。疲労感はあったが、それ以上に甲子園でしか味わうことのできない高揚感があった。

 エース同士の投手戦となり、なかなか決着がつかなかった。均衡が破れたのは13回表。今治西が熊代のタイムリー、そして宇高の犠牲フライで2点を勝ち越した。
「よし、これで勝てる」
 守りについたナインも、ベンチも、そしてアルプススタンドも、誰もがそう思った。だが、今治西はここで野球の本当の怖さを知ることとなる。6回から好投を続けてきた熊代だったが、もう疲労はピークに達していた。制球は定まらず、わずか4球で1点を失う。さらに自らの暴投で同点とされた。

 なおも無死三塁。ここで宇高は一人、マウンドへと駆け寄った。
「オマエが頑張ったから、オレたちはここまで来れたんだ。だからオマエの好きなように、思い切って投げたらいい。結果じゃないから」
 そう言って、自分のポジションに戻っていった。しかし、肩で激しく息をする17歳の少年にもう余力は残ってはいなかった。四球でランナーをため、一か八かの満塁策がとられた。そして――。

「カキーン!」
 渇いた音が甲子園に鳴り響いた。白球は高々と上がり、センターへと伸びていく。誰もが犠牲フライを覚悟した。だが、この時点で宇高は勝負を諦めていなかった。自らが中継に入り、サヨナラのホームを阻止しようと思っていたのだ。そしてアルプススタンドで見守る父親もまた、同じ気持ちだった。「幸治が絶対に刺してくれる」。しかし、あまりの必死さに中継に入ろうとした宇高の姿は全く目に入らなかったのだろう、センターは直接キャッチャーへのバックホームを試みた。だが、送球は逸れ、ランナーがサヨナラのホームを踏んだ。その瞬間、宇高の高校野球が終わった――。

 宇高はほとんど人前で涙を見せたことがない。野球でさえ、勝っても負けても試合では泣いたことがなかった。しかし、日大山形の校歌が流れ始めた途端、涙がとめどなく流れてきた。
「今まで苦しかったことばかりが頭の中に浮かんできて、“それも、もう今日で終わりか……”と思ったら、涙が止まらなかった。現実を受け入れたくないと思ったんです」

 2006年8月20日。この日、甲子園では決勝が行われていた。早稲田実・斎藤佑樹(早稲田大)と駒大苫小牧・田中将大(東北楽天)。大会屈指の右腕同士の激しい投手戦は、延長18回までに決着がつかず、再試合となった。そんな球史に残る名勝負が繰り広げられる中、宇高は同級生らと一緒に地元の海で思いっきり羽を伸ばしていた。
「オレら、もう関係ねぇもん!」
 浜辺には普通の高校生に戻った彼らの笑い声が鳴り響いていた。


(第3回につづく)

宇高幸治(うだか・こうじ)プロフィール>
1988年4月5日、愛媛県今治市出身。小学2年から日吉少年野球クラブで野球を始めた。今治西高では1年夏からベンチ入りし、同年秋より4番に抜擢される。3年時にはキャプテンとしてチームを牽引。夏の甲子園ではベスト16入りを果たし、自身も2本のホームランを放った。高校通算本塁打数は52本。進学した早稲田大では1年春からベンチ入りし、レギュラーに定着した2年春、秋にはベストナインに選出された。今春、慶應大との優勝決定戦では公式戦初ホームランを放った。







(斎藤寿子)
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