65回目の終戦記念日が訪れる。巨人のエース沢村栄治に3度目の赤紙が届き、門司港からフィリピンに向かう船中、東シナ海で敵の魚雷を受け、戦死したのは66年前の冬のことだ。今回は“不世出の大投手”に関する秘話をひとつ紹介したい。
 沢村の投手としてのピークはいつか。データを見る限り、それは1936〜37年にかけてである。沢村が19歳から20歳の頃だ。
 当時のプロ野球は2シーズン制だった。36年秋、13勝2敗、防御率1.05。37年春、24勝4敗、防御率0.81。沢村はノーヒット・ノーランを3度達成しているが、最初が36年秋、2度目が37年春である。
 いかに沢村が規格外の投手であったか。こんな証言をしてくれたのはタイガースの主砲・藤村富美男だ。「沢村のいい時は、高目のボールがグーンと伸びてきてかすりもせん。ワシはアメリカの投手とも何度か対戦したけど、あれほど伸びのあるボールを投げる者はおらんかった。なにしろ、ど真ん中のボールが当たらんのやから。ワシらは戦争に巻き込まれた世代やけど、よく皆で“銃弾と沢村のボールはどっちが速いか”なんて話をしたもんや」

 しかし全盛期は短かった。2度の応召が肉体や肩を蝕んでしまったのである。最後のシーズンとなる43年は0勝3敗、防御率10.64。往年の銃弾のようなストレートは見る影もなかった。
 進退窮まった沢村は何を考えたか。なんとバッターに転向しようとしたのである。そのことを千葉茂から聞いたのは、今から15年ほど前のことだ。「あれは昭和15年やったかな。沢さんがあまりにもええとこで打つので、当時の藤本定義監督が野手に向かって“オマエら皆、沢村のバッティングを見習え!”と怒鳴ったことがあるよ。とにかく、ほれぼれするほどのセンスじゃった。ワシが見た中で“こりゃホンマ、野球の天才やな”と思ったのは戦前では沢村、戦後では長嶋茂雄……後にも先にもこの2人だけよ」

 沢村にとって記録に残っている野球人生最後の出場は実は代打である。43年10月24日、州崎球場でのタイガース戦。2対2の同点で迎えた11回表、1死1、2塁の場面で監督の中島治康は沢村を打席に送った。代えられた選手は強打で鳴る青田昇だった。青田の心境はいかばかりだったか。今となっては知る術もない。

<この原稿は10年8月11日付『スポーツニッポン』に掲載されています>
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