サッカー日本代表のベスト16入りは、最悪の状況をも想定したスタッフたちの“準備力”の勝利だった。と同時に、南アフリカでの充実したサポートも大きかったと森は振り返る。
「結論から言うと、ヨーロッパの遠征に非常に近い環境だったのではないでしょうか。水や食事では苦労しなかったんです。日本から帯同した2人のシェフやホテルスタッフが、安全な食料を調達してくれましたから。生野菜は毎食食べられましたし、お米にしても日本から持ってきた分が途中でなくなったのですが、現地で韓国米を見つけて使っていました。すごくおいしくて好評でしたよ」
(写真:スイスにてFIFAブラッター会長と)
 森たちドクターがもっとも心配していた医療体制も、日本代表が滞在したジョージではすべて整っていた。何といってもアフリカ大陸では初のW杯だ。大会を成功させようとする現地の熱意はすさまじかった。
 それを物語るひとつのエピソードがある。合宿から大会期間中にかけて、日本代表では絆創膏が不足していた。原因は靴ずれの大量発生だ。選手たちがW杯用に一斉にスパイクを新調したため、履き慣れるまで、どうしても靴との摩擦で傷が絶えなかった。日本からも絆創膏は大量に持参していたが、それでも数が足りない。とうとうジョージで購入の必要に迫られた。

 しかし、南アフリカは日本と比べれば、はるかに治安は良くない。おいそれと外出しようものなら、襲われるリスクもある。
「絆創膏を買いたいので、外に出たい」
 セキュリティーの担当者にそう告げると、早速、パトカーが手配された。森たちの乗った車は、現地警察の完全護衛付きで買い出しに出かけたのだ。
「パトカーの先導なので、信号でも全く止まる必要がない。正直、“ただ、絆創膏を買いに行くだけなんだけど”と思いましたよ(笑)」
 そこまで便宜を図るほど、ジョージの人々は日本代表を心からもてなしていた。

 転機になった大ケガ

 今ではアスリートをサポートする立場の森も、少年時代はサッカー選手を夢見ていた。足の速さを買われ、ボールを蹴り始めたのは小学校3年から。愛媛県では歴史のある強豪サッカークラブ、松山サッカースクールに入った。ポジションは前線からDFまで、どこでもこなした。
 もちろん、時代はJリーグ誕生の約20年前。W杯出場など夢のまた夢の時代だった。愛媛では社会人の帝人が日本サッカーリーグの2部に所属していたものの、トップ選手のプレーや情報に触れる機会はほとんどなかった。

 そんな中、唯一といっていいサッカー情報番組が、テレビ東京系列で放送されていた「ダイヤモンドサッカー」だった。まだ馴染みの薄かったW杯や海外サッカーを紹介する内容がサッカー好きには人気を集めたが、愛媛県下では局の関係で放映がなかった。しかし、森は松山で数少ないダイヤモンドサッカーの視聴者だった。
「スポーツショップの息子と僕が同級生で、彼のお父さんが広島からダイヤモンドサッカーを録画したβのビデオテープを送ってもらっていたんです。そのスポーツショップで、よく観ていましたよ」
 
 サッカー関連の本も読みあさり、W杯に関する関心も高かった。当時としては珍しいサッカーオタクだった。
「プロはありませんでしたけど、実業団に入って、働きながらサッカーできればいいなとは思っていました。あとは飛行機の設計士になるのも夢でした。趣味でグライダーの模型も作っていたんですよ」

 ところが、進学した松山東高でサッカー部に入部した森に、将来の望みが暗転する出来事が起きる。それは高校2年の時だ。プレー中に右太ももから「パチーン」とはじけるような音が聞こえた。続けて激痛が走った。右大腿直筋断裂。診察した医師からは「もう切れた筋肉はつなげられない」と告げられた。今でも右太ももの前側は切れた筋肉が収縮し、真ん中が少し凹んでいる。俊足を売りにしていた少年も、これでは全力で走れない。ひとつの夢は、ひとつのケガで無情にも断たれてしまった。

(第4回へつづく)
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森孝久(もり・たかひさ)プロフィール>
1963年7月16日、愛媛県生まれ。松山東高時代にサッカーで右大腿直筋を断裂したことをきっかけに整形外科医を志す。愛媛大学医学部に入学し、同附属病院で91年に医師生活をスタート。93年から愛媛FCユースのチームドクターとしてサッカーに携わる。01年には愛媛FCトップチームのドクターに就任し、翌年にはユニバーシアード日本代表のチームドクターに。02年日韓W杯では横浜国際総合競技場にてスタジアムの医務を担当する。06年10月より日本代表のドクターに抜擢され、イビチャ・オシム、岡田武史両監督の下で代表チームをサポートした。07年9月には松山市に整形外科つばさクリニックを開院。院長を務める。
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(石田洋之)
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