東都大学野球リーグは、今や大学野球で最もレベルの高いリーグと言っても過言ではない。最近5年間では、全日本大学野球選手権大会、明治神宮野球大会のどちらかで毎年優勝校を出している。その同リーグの一角を担っているのが、亜細亜大学だ。多くのプロをも輩出している同大学には当然、甲子園常連校から優秀な選手たちが集結する。その名門校に3年前、甲子園に一度も出場したことのない小さな公立校から一人の投手が入ってきた。徳島県立穴吹高校出身、北原郷大だ。
 レスリング部は県内屈指の強豪校として知られ、全国大会常連校の穴吹高だが、野球部は未だ一度も甲子園に出場していない。北原が2年生の夏に果たした県大会初戦突破は実に19年ぶりだったほどである。2年夏からエースナンバーを背負い、地元では名を馳せていた北原だが、それでもやはり全国では無名に等しかった。そんな自分に多くのプロ野球選手を輩出している名門大学から声をかけられたことに、北原自身も驚きを隠せなかったという。と同時に、高校時代の河川敷のグラウンドとはまるで違う充実した環境に胸が高鳴った。
「こんないい環境で練習したら、自分はどれだけレベルアップできるんだろう」
 18歳の北原には、亜細亜大学はまるで別世界のように思え、今後の自分自身の成長が楽しみでならなかった。

 しかし、高校まで実家暮らしだった彼にとって寮生活は初めてのこと。入学直後、北原はホームシックにかかった。亜大の野球部は4人部屋で1年から4年まで縦割りされている。その年は1年生が多く、北原の部屋には彼の他にもう一人1年生が入っていたため、少しは気が楽だった。だが、2つ上の兄が野球部にいたことで、すぐにチームにうちとけることができていた高校までとは違い、誰一人知らない中、ゼロから人間関係を築くのは楽ではなかった。

「実家でも練習から帰ってきたら自分で洗濯したり、夕食の片づけをしていたので、そのことには特に苦労は感じませんでした。でも、周りは誰も知らないし、練習は厳しいしで、朝と夜はいつも徳島に帰りたいなぁって思っていました(笑)」

 そんな北原を支えていたのは、プライドだった。見渡せば、周囲は皆、甲子園で名前を聞いたことのある高校ばかり。同級生には夏の甲子園決勝戦で歴史に残る名勝負を演じた駒大苫小牧高校の4番打者・本間篤史がいた。そんなエリート集団の中、自分だけが浮いているように思えた。しかし、ここでひるむような軟な性格ではない。
「入学したばかりの頃は、どうしても出身校で見られてしまうんです。穴吹高校から亜細亜大学に進学したのは僕が初めてで先輩もいないし、全国では全くの無名校。だからバカにされないように、早く実力をつけよう、と思ってやっていました」

 そんな北原にチャンスが訪れたのは、その年の春季リーグ戦、最終戦となった青山学院大戦第1戦のことだった。
「北原、オマエ投げてみるか」
 試合途中、ベンチで生田勉監督にそう言われると、北原は迷わず「はい」と答えた。
「よし、じゃ、1イニングだけ投げてみろ」
 1点ビハインドで迎えた5回裏、北原は初めて神宮球場のマウンドに上がった。緊張はしたという北原だが、結果は三者凡退。見事に好投を演じた1年生投手に指揮官は、もう1イニングをオマケしてくれた。そして、今度もまた、三人できっちりと終わらせたのだ。

「消化試合だったので、1年生の僕に経験を積ませてくれようとしたんだと思います。でも、僕にとっては今後を占う大事な登板だという自覚はありました。ここで結果を出せば、またチャンスがもらえる。そう思って投げました」
 指揮官が期待していた以上の結果を残した北原は、同年秋には初勝利を挙げる。この試合、先発投手が初回で崩れ、急遽2回からリリーフした。「とにかくいけるところまで全力でいこう」。そう思っているうちに結局、最後まで投げ切り、無失点に封じたのだ。しかも、この時投げた球種はストレートのみ。スピードも130キロ台半ばだったという。

「この時は、キャッチャーのサイン通りに投げることができました。多分、1年生で怖いもの知らずだったことが良かったのだと思います。でも、自分自身にもようやく自信をもてるようになりました。“よし、大学でもやっていける”。そう思えた試合でした」
 持ち前の負けん気の強さと人一倍の努力で1年目にして早くも結果を残した北原。いよいよこれから主力として活躍をと期待される一人となっていた。

 そんな彼に何の前触れもなく、突如、病魔が襲ったのはその年のオフ、1月末のことだった。高熱が続き、徐々に体の痛みが激しくなっていった。インフルエンザかと思われたが、医師の口から聞かされたのは聞きなれない病名だった。
「ギランバレー症候群」
 運動神経に障害を起こし、体が動かなくなる特定疾患のひとつで、ひどい場合には体に後遺症が残り、話すこともままならなくなったり、呼吸困難に陥ることもある。

 北原は1カ月間の入院を余儀なくされた。
「すぐに野球部に戻るから」
 お見舞いに来てくれる先輩や同級生にはそう言って平常心を装ったが、心の中ではやはり大きな不安が渦巻いていた。

(第2回につづく)

北原郷大(きたはら・あきひろ)プロフィール>
1988年6月9日、徳島県美馬郡つるぎ町(旧半田町)出身。小学1年から野球を始め、中学からは投手一本。穴吹高では2年夏からエースとして活躍。甲子園の夢は果たせなかったが、素質の高さを評価され、同校出身者としては初めて東都大学リーグ1部に所属する亜細亜大学野球部に入った。1年春からベンチ入りし、リリーフ投手として登板。1年時のオフに「ギランバレー症候群」を発症し、2カ月間の療養生活を余儀なくされるも、2年春に復帰。同年秋には初先発で初勝利・初完封を成し遂げるなど、2勝を挙げた。3年春には自己最速となる151キロをマークした。178センチ、76キロ。右投右打。







(斎藤寿子)
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