2007年9月17日、東都大学野球リーグ秋季リーグ。大学野球の聖地・明治神宮球場のマウンドには初先発で初完封を成し遂げた北原郷大が立っていた。
「入院している時は野球がまたできるなんて考えられなかった」
 息子の奇跡のような復活劇に父親は驚きを隠せなかった。それもそのはずだ。約半年前、彼は病院のベッドでギランバレー症候群という病魔と闘い、激痛に苦しんでいたのだ。そんな彼が強豪相手に完封劇を成し遂げるなどということを誰が想像できただろうか――。
 2年生の新学期が始まる直前、北原は療養していた徳島の実家から寮に戻った。丸2カ月間、ほとんどの時間を布団の上で過ごしていたのだ。試合で投げられるようになるには、それ相当の時間が必要になる。北原自身、そう覚悟していた。生田勉監督からも「これから1年かけて、ゆっくりと体を戻していけばいい。復帰は3年春くらいからと思って、とにかく焦らずにやっていこう」と言われていた。

 ところが、いざトレーニングを始めると、意外にも体が動いた。1カ月後には元通りに投げられる状態にまでなった。すると、早くもチャンスが訪れた。5月28日の東洋大戦、8回まで相手打線を無失点に封じていた先発投手が最終回に一挙4点を失った後、北原はマウンドに上がった。投げたのは打者1人だったが、三振に仕留めて見せた。そして2日後の試合(東洋大戦)にも北原は登板した。今度は1イニングを任され、打者3人をわずか4球で封じた。新聞には『難病からの復活登板』というような内容が躍った。

「さすがに登板を告げられたときには、“えっ!? 早すぎるんじゃ……”と思いましたよ(笑)。でも、緊張感はありませんでした。2試合とも負けていた試合でしたけど、とにかくまた神宮で投げられることが嬉しかったです。ピッチング自体もそれほど悪くなく、ボールのキレやスピードも問題ありませんでした」

 さらに秋季リーグでは北原は初先発のチャンスをつかむ。9月17日、青山学院大戦。前日の開幕戦では4−8と青学大に敗戦を喫していた亜大にとっては大事な一戦だった。だからこそ、北原はまさか自分が先発に選ばれるとは夢にも思っていなかった。試合当日、いつものように出発前にミーティングが行なわれ、試合の先発メンバーが発表された。
「ピッチャー、北原」
 いきなり名前を呼ばれた北原は、すぐには事態を把握することができなかった。
「えっ!? オレ?」
 しかし、驚いている暇はない。すぐに神宮球場へと向かい、試合の準備にとりかからなければならなかった。

「でも、逆に当日突然言われたから良かったんだと思います。前もって言われていれば、もっと考えてしまって緊張してしまったのかもしれませんけど、すぐに試合だったので、『もう行くしかない』という感じだったんです」
 北原は初回から全力で投げた。「後ろにはピッチャーがいるから、最初から飛ばしていけ」という監督の言葉を信じ、とにかく無我夢中で投げた。5、6回くらいいければいいかな、と思っていた北原だったが、ピンチらしいピンチもなく7回まで無失点。この頃には「もしかして、今日は一人でいけるんちゃうか?」と完投が頭をよぎっていたという。

 7回を終えて4−0と亜大リード。「まだいけるか?」という生田監督からの問いに北原は自信をもって「はい!」と返事をした。そしてその通り、最後まで投げきった。終わってみれば4安打完封勝ち。彼にとっては至福の瞬間だったに違いない。
「病気をしたことで、また一からやり直したことがいい結果につながったんだと思います」
 この時の好投の要因を彼はこんなふうに語った。

 しかし、いい時は長くは続かなかった。3年生となり、エースとしての期待を一身に背負って迎えた翌年の春。北原は開幕投手に抜擢された。だが、5回0/3を投げて4失点。チームも4−8で黒星スタートとなった。今度こそはと登板した第3戦も序盤に2失点を喫し、わずか3回で降板した。「名誉挽回して、チームに貢献したい」という気持ちが逆に力みとなったのだ。

 北原はこの時から自分のピッチングに自信をもてなくなってしまった。
「決して調子自体は悪くはないんです。それなのに、なぜか今までのように抑えられなくなってしまった。調子が悪ければ、それなりに修正することもできるのですが、逆に調子がいいからこそ何で打たれるのわからないんです。正直、自分自身に限界を感じ始めました」

 その後、北原は先発からリリーフにまわった。もちろん、悔しい気持ちもある。だが、自分のことだけを考えることはできなかった。チームの力になれるのであれば、与えられたポジションで頑張るしかないのだ。そんな北原の気持ちを顕著に表しているのが、先発を外れて約1カ月後、5月13日の立正大戦だ。北原は9回2死満塁の場面で登板。亜大のリードはわずか1点だった。一打逆転の大ピンチだったが、自己最速の151キロをマークし、内野ゴロに打ち取った。東洋大と激しい優勝争いをしていた亜大は、この1勝で直接対決の最終戦へと持ち込んだのだ。

 その最終戦、第1戦を落とした亜大は、第2戦の先発に北原を上げた。優勝がかかっている大事な一戦なだけに、ここで結果を残せば確実に評価は上がるはずだった。しかし、初回に2失点を喫して降板。またも指揮官の期待に応えることができなかった。
「『やっと先発に戻れた』という思いはありましたが、特に緊張はしていなかったんです。でも、先頭打者をいきなり四球で出してしまいました。1死後に立て続けにタイムリーを打たれて2失点。この時も調子は悪くなかったんですけど……」

 3年の秋、北原が投げたのはわずか1試合のみ。そして最終学年となった今年も春に2回、秋に1回の登板に終わり、不完全燃焼のまま大学野球が終わった。だが、彼は決して自分自身を諦めてはいない。現在、彼の持ち球はストレートとスライダーのみ。ストレートだけで挑むことも珍しくはない。ボールのキレとコースに投げ分けるコントロールで打者を翻弄してきたのだ。しかし、それではこれからは通用しないことは、彼自身が一番わかっている。だからこそ現在、北原は変化球の習得に努めている。

 だが、それ以上に彼が今、必要と感じていることがある。ハングリー精神だ。
「1年生の時は、無名校出身だからといってバカにされたくない、という気持ちがあったので、本当に一生懸命練習しました。後輩の東浜巨が入ってきた時も、最初は“負けてられない!”という気持ちがあったんです。でも、いつの間にかそういう気持ちが希薄になってきていたんだと思います」

 28日にはプロ野球の新人選択会議(ドラフト)が行なわれる。しかし、そこで北原の名が呼ばれることはない。監督と相談したうえで、自ら志望届を出さないことに決めたのだ。とはいえ、目標がプロであることに変わりはない。
「地元の同級生が楽しみにしているので」
 そう言って笑う北原の表情には暗い影は見えなかった。もう既に彼の中では次に向けての準備が始まっているのだろう。社会人野球でどれだけ成長できるか、彼はそれに賭けている。

「叩けよ、さらば開かれん」とは、新約聖書の言葉だ。「積極的に努力すれば必ず道は開かれる」という意味だが、最近読んだ本で偶然見つけ、北原の座右の銘となっている。
「何でも自分でやろうとせな、道は開かれん。これまでの失敗を考えて受け身になっていてもあかんし、自分で挑戦していかな、成功にはいかんのやなって思うんです。だから、この言葉は今の自分にはピッタリやなって」
 突如出た徳島弁が偽りのない彼の気持ちを物語っているように思えた。北原の挑戦はこれからが本番だ。

(おわり)

北原郷大(きたはら・あきひろ)プロフィール>
1988年6月9日、徳島県美馬郡つるぎ町(旧半田町)出身。小学1年から野球を始め、中学から投手一本。穴吹高では2年夏からエースとして活躍。甲子園の夢は果たせなかったが、素質の高さを評価され、同校出身者としては初めて東都大学リーグ1部に所属する亜細亜大学野球部に入った。1年春からベンチ入りし、リリーフ投手として登板。1年時のオフに「ギランバレー症候群」を発症し、2カ月間の療養生活を余儀なくされるも、2年春に復帰。同年秋には初先発で初勝利・初完封を成し遂げるなど、2勝を挙げた。3年春には自己最速となる151キロをマークした。178センチ、76キロ。右投右打。








(斎藤寿子)
◎バックナンバーはこちらから