どうなっているんでしょうねえ、日本の政治は。いや、あわてて申しそえますが、私は政治にも経済にも、きわめてうとい人間である。当欄で表明するほどの政治信条、見解など、何も持ちあわせていない。
 ただ、民主党政権が、というより、自民党政権の末期から今に至るまで、一貫してなんだか情けない状況が続いていますよね。床屋政談レベルの感想を申し述べれば。
 これ以上は、素人談義をやめて、プロの言葉に頼ることにする。
 例えば、政治評論家・岩見隆夫さんは、小沢一郎氏の国会招致論争を論じたコラムで、現在の政局について、<とにかく子供っぽい。大人の政治ではない。>と書きおこし、<真剣に大人の議論をしてもらわなければ、政治は劣化の一途をたどる。>と締めくくっておられる(スポーツニッポン「岩見隆夫の永田町曼荼羅」11月9日付)。
 キーワードは、これだ――「劣化」。

 というわけで、これから日本野球の「劣化」について論じたいのだが、政治と野球を一緒にするな、というご批判があるかもしれない。あらかじめ、その点に触れておこう。
 社会学者・大澤真幸さんの新著に『量子の社会哲学――革命は過去を救うと猫が言う』(講談社)がある。
 ユニークかつブリリアントな本なのだが、何がブリリアントかというと、「量子」というキーワードで、19世紀から現代に至る社会変革に通底するものを剔抉(てっけつ)した点である。
 量子力学という物理学の最尖端の知見が、20世紀の人類社会が形成されるうえで、常に重要な契機になっていることを示しているのだ。
 その顰(ひそみ)に倣って申し上げたいのは、現在の日本社会は「劣化」というキーワードで、さまざまな社会現象を横断的に理解できるのではないか、ということだ。

 今年の日本シリーズを例にとりたい。
 千葉ロッテ対中日である。巨人は出ないし、1、2、5戦は地上波中継なしという異例の事態だった。テレビ局にとって、日本シリーズは魅力的な番組ではなくなった、と言われているようなものだ。
 ところが、意外な事態にたち至る。ナゴヤドームで行なわれた第6戦は、延長15回引き分けになだれこみ、5時間43分の日本シリーズ史上最長試合となったのである。これをフジテレビが試合終了まで、翌日午前0時4分まで完全生中継した。
 フジテレビの英断というべきだが、なんと視聴率18.9%(関東)を記録した。これで勢いを得て、翌第7戦の視聴率は20.6%(同)という高視聴率を叩き出したのである。
 巨人戦以外でも20%を超える。日本シリーズには、まだまだコンテンツとして魅力がある。そんな評論が飛び交った。

 ところで、第6戦を観ましたか。私は観た。というより、延長に入って、観ざるを得なくなってしまった。おい、どっちが勝つんだよ、早く決着つけろよ、寝られないじゃないか。
 11回裏、2死満塁で荒木雅博がファーストライナーに倒れたときなど、「普通、ここでサヨナラだろ、何やってんだ」と思わずテレビに毒づいた。
 確かに長い試合だった。それを熱戦といってもいいのかもしれない。しかし、忘れてはいけないのは、内容はきわめて乏しい試合だったということである。
 延長に入って、ロッテ投手陣は、不用意に四球を出す。中日はそれを攻めきれない。
 12回裏は、先頭の井端弘和がヒットで出て、森野将彦が併殺打。せっかく2死無走者にしたのに、その後、ロッテの投手・小野晋吾は、四球、死球と走者を2人出す始末。それでも、中日は得点できない。

 ヘボ将棋の終盤で、双方にとっくに詰む筋があるのに、どちらも棋力がなくて読めないから、本当は終わっている勝負を延々続け、相入玉になったかの様相である。
 申し訳ないが、これを名勝負とは言えない。せっかくの日本シリーズも、内容は乏しいものだった、と嘆くしかない。もちろん、すべての試合を否定し去ろうというのではない。いい試合もあった。ただ、だからこそ、われわれは「劣化」のきざしを見逃してはいけないのではないか。まして、第6戦、第7戦をもって名勝負とする感性はしりぞけなくてはならない。
 試合もそうだが、高視聴率をタテにとって、名中継だ名試合だと評論するメディア、および視聴するわれわれもまた、事態の一因を担っていると言わざるを得ないのだろう(かく言う私も、最後まで観てしまったのだが)。

 では、「劣化」の淵源は、どこにあるのだろうか。
 それは、「クライマックス・シリーズ」というシステムそのものだと断じたい。
 ペナントレース144試合とは事実上別に、3位でも日本一になれる、というシステムに安住している日本野球のツケが回ってきたのである。
 例えば今季2位阪神の城島健司は、3位巨人とのクライマックス・シリーズに敗れ去った後、こうコメントしている。
「確かに連敗したし、ふがいないゲームだったかもしれないけど、阪神は2位。シーズン144試合を否定することはないと思います」
 全面的に賛同したい。今のクライマックス・シリーズは、ペナントレース144試合を否定するシステムになっているのだ。これが、劣化を招く根本原因である。そんなことを、いかに発言力のあるスター捕手とはいえ、一人の選手に苦しい胸の中を吐露するような形で言わせていいのか、と言いたい。

 一方で、メジャーリーグのプレーオフはどうか。ヤンキース、フィリーズという、強力な投打をもってワールドシリーズを戦う最有力と見なされた2チームに、実は内側で進行している劣化は感じた。それはこの2チームの経営の問題であり、システムの問題ではない。むしろ、その2チームが敗退し、最終的にはジャイアンツという、無名でも強力な投手陣をもつチームが優勝するという結末に、納得できるものがあった。
 アメリカのプレーオフシステムだって、万全ではない。ワイルドカードという形で、地区の勝率上位チームが2チーム入れることになっている。今季でいえば、ヤンキースはワイルドカードだった。
 しかし、6地区に分かれてペナントを争っているので、8チーム中6チームは地区優勝したチームがプレーオフに参加することになる。まがりなりにも、ペナントレースの優勝チームである。少なくともその分だけ、2位でも3位でも、下手すりゃシーズン負け越しの3位でも、日本一になれる可能性のある日本のシステムとは違う。

 何も、アメリカの真似をすることはない。日本は日本独自のプレーオフ・システムをつくればよい。
 ただ、そこに負け越しても進出できるような、ペナントレース144試合を否定するような要素があってはならない。
 日本球界は、今年もドラフトで話題の新人が数多く入った。前田健太(広島)、ダルビッシュ有(北海道日本ハム)、田中将大(東北楽天)、坂本勇人(巨人)など、若いスターも育っている。せっかく、新しい才能が輩出する土壌、すなわち文化があるのである。
 プレーオフのシステムによって、文化の劣化を招く愚を続けてはならない。

上田哲之(うえだてつゆき)プロフィール
1955年、広島に生まれる。5歳のとき、広島市民球場で見た興津立雄のバッティングフォームに感動して以来の野球ファン。石神井ベースボールクラブ会長兼投手。現在は書籍編集者。
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