西本恵「カープの考古学」第78回<高卒ルーキー百花繚乱編その1/開幕戦にエースが投げられない!?>
カープ球団創設から3年目のシーズンに向かうにあたり、絶体絶命の危機がやってきた。名古屋軍が戦力で劣るカープにあって、唯一、勝ち星を計算できるエース長谷川良平を引き抜こうとする暴挙に出たのだ。名古屋軍の魔の手を振り払い、無事、広島に連れ戻すことができたのは、なんとシーズン開幕前日の3月20日であった。名古屋軍にかくまわれ、まったくボールを握っていなかった長谷川の頬はこけ、青白く弱りはてた姿は、とうていエースと呼べるものではなかった。
この逆境には、カープファンとて、どうしようもなかろうと、下を向くよりほかなかった。加えて、この年も前年から継続して、セントラル・リーグ連盟の規定である勝率3割を切ったチームの処遇は、連盟理事会に委ねるという、厳しいお達しが継続されていた。エースが投げられず勝てる戦力が整わない中、さて、いかにカープはこの逆境に打ち勝っていくのか――。
ここで、カープは新戦力に頼らざるを得なかった。新戦力といっても、大学野球や社会人ノンプロでの実績のある選手らではない。高卒ルーキーであった。
プロ野球において、新人の高卒選手であれば、一般的に2、3年は育成期間がかかると言われている。一方、甲子園出場を果たせなかった無名の高卒選手ならば、多額な契約金のかかる大卒選手や、ノンプロ社会人選手らとは違って、契約金や年俸など、条件面で安くあがり、うまく育てられれば、儲けものである。そんな願いも込められて採った高卒選手。石本秀一監督は、この高卒選手らの素材の良さを見出し、経験を積ませて育てながら、独り立ちするのを待った。特にこの年に入団した、尾道西高校の大田垣(後の備前)喜夫には、光るものを見ていたのである。さらに、大阪興国商業から入団の松山昇や、尾道西高校でファーストを守っていた榊原盛毅を投手として入団させた。カープは、彼ら新人三勇士ともいえる活躍に助けられたシーズンとなるのだ。
カープが、長谷川引き抜き事件に揺れてスタートした昭和27年は、日本国内も揺れていた。日本が独立した後、初めてプロ野球の開幕を迎えるこの年、アメリカから問われたのは、日米安全保障条約における行政協定である。アメリカが駐留する中、日本はさまざまな行政上の不利を強いられた。協定は3月1日に結ばれ、日本は従うかのように文書を交わす。加えて、連合国軍による占領下において、送られてきた日本支援のためのララ物資も、今年度での打ち切りが発表された。あらゆる不備を感じながら、プロ野球は開幕を迎えるのだった。
強きを助け、弱きをくじく――。こうした世界情勢下を生き抜かねばならない、日本の国内情勢の中、相変わらずカープもプロ野球界で苦しい状況下に置かれていた。
オープン戦に光明を見たり
カープ草創期には、なかなかオープン戦の対戦にも応じてもらえない中、昭和27年2月、幸運にも南海ホークスとオープン戦を組むことができた。これは南海ホークスの山本(鶴岡)一人監督が、自分の故郷、広島県呉市でキャンプをしていたことと、カープ石本監督が、広島商業監督時代に鶴岡一人を育てたことに由来している。キャンプ中には、必ずと言っていいほど、カープの宿舎では、石本監督からの指示が久森忠男マネージャーに伝えられていた。
石本から「ツル(鶴岡)に言うて、試合を組んでもらえよ」と、いつもながらの指令が、久森マネージャーに飛んだ。こうした師弟関係があり、この頃のカープは、セリーグの最下位のチームでありながらも、パシフィック・リーグを席巻する南海と試合を組むことができたのである。
山本監督率いる南海が呉市でのキャンプ中、2月20日には、FK(現NHK広島放送局)の番組「スポーツ広島」200回記念で、広島市児童文化会館において、公開録音を行うイベントがあり、石本と山本(鶴岡)監督のトークショーが行われた。加えて、白石勝巳、柚木進、蔭山和夫が野球技術に関する談義をし、若手選手らは、紅白に分かれてののど自慢大会が行われた――。カープ選手らが自慢の歌を披露するというファンには願ってもない放送となった。
久々に旧交を温めた2人であったろう。しかしながら、現実には、恩師石本の率いるカープは、特定の親会社のないことから資金難に苦しみ、2年連続でセリーグ最下位となった。一方の山本(鶴岡)監督率いる南海は、戦後の大量輸送が求められた時代の、親会社・南海電鉄をバックにしたパ・リーグの常勝軍団であった。
この年、2月10日から、呉市の二河球場でキャンプを張る南海の仕上がり具合はよかった。
<十日から山本(鶴岡)監督、柚木投手の故郷呉市の二河球場で本格的な冬季練習に入った南海は、二週間この球場での目標を新人の養成と打力の伸長に重点を置いた>(「中国新聞」昭和27年2月25日)
前年、パ・リーグを制した山本(鶴岡)監督のコメントが発表され、見出しに躍った。
<バク進、二連覇へ>(同前)
南海にとってチームづくりにぬかりはなかった。
<若手投手の服部(武夫)をはじめ、井上(慎一)、安田(昌雄)、有友(敏)などは江藤(正)、柚木(進)などのベテラン選手の指導にメキメキと腕をあげて>(同前)
その南海との試合とあって、正面からぶつかって、敵うはずはなかろう。石本はある新人投手を送り出すのである。
先発・大田垣
南海とのオープン戦第2戦が、2月24日午後1時から、広島総合球場で行われた。前年、パ・リーグの覇者の南海を率いての故郷広島への凱旋とあって、山本(鶴岡)監督も誇らしかったであろう。第1戦は南海が勝ったが、第2戦に、石本は思い切った起用をみせたのだ。
つい先日まで、高校生であった大田垣。身長170センチと決して大柄でない体躯にありながらストレートだけでなく、変化球もいいとチーム内では評価されていた。
この評価をさらに、大きく引き上げ、プロ球界全体への評価に変える瞬間が早々とやってきた。
大田垣は、4回まで要所を締めるピッチングで、得点を許さなかった。この数年後、黄金期を築く南海打線をよく抑えた。
<南海は太田垣(原文ママ)のコントロールのよい魔曲球に容易に、チャンスはつかめなかった>(「中国新聞」昭和27年2月25日)
高校生は卒業式さえ、すましていない時期であるが、大田垣は南海打線を封じた。
しかし、この日、すべての南海の打者を抑えたわけではない。蓑原宏にだけは4打数で長短打含む3安打と打たれた。これにより、5回表に1点、7回表に1点を献上した。加えて、8回の守備では内野陣のミスから、無死満塁のピンチで蓑原に痛打され、2点を追加された。ほぼ蓑原ひとりにやられたのである。
それでもカープ打線も大田垣の好投に報いるため、6回裏、ツーアウトながら二、三塁と攻め立て、ショートゴロエラーの間、1点を返した。大田垣の好投は続いた。
7回裏には、ワンアウト満塁と攻め立て、押し出しのフォアボールでもって、ついに、南海はエース柚木を投入してきたのだ。
エースを迎え討つは、カープ一番の曲者・武智修である。フルカウントから武智は強振、レフト前に運んで2点をかえし、4対4と追いついたのだ。
こうなるとカープは押せ、押せのムード一色である。9回裏には代った中原宏から磯田憲一がフォアボールで歩くと、続く白石が手堅くバントで送った。塚本がさらにフォアボールを選び一、二塁とした後に、ここぞに強い武智が、鉄壁とされた三遊間を抜いて、二塁から磯田が還り、サヨナラ勝ちを収めた。
投手育成の石本の視線とは
カープはエース不在のオープン戦において、新人の実践の場をつくり続けて、着実に力をつけさせていたのだ。
石本は、長谷川不在のオープン戦において、大田垣を実にうまく使っている。2月24日の南海戦で大田垣が9回を9安打4失点で完投したが、試合の前置きともいえる、その前段で登板をさせているのだ。
2月17日、同じ南海戦で先発、3回まで投げさせているのだ。この日の試合は2対4で敗れたものの、大田垣には打者一巡目をしっかりと投げさせて、次回につなげている。ここに石本の哲学が感じられる。大田垣は3回を無失点に抑えた。通常ならば続投させてもいいが、プロの試合に段階的に慣らさせていたのだ。こうした丁寧な投手起用をしながら、独り立ちの時を待った結果、7日後の完投につながっているのだ。
このように、石本は長谷川不在でも戦うことができる準備を着々と進めていることが解かる。監督業は、あらゆる事態を想定しながら、準備をするというが、この時代のカープの戦力で、後に最強軍団といわれる南海ホークスをたとえオープン戦であっても、新人投手に勝利を導くのは難しかろう。選手を育成のリズムに乗せながら、がっぷりと四つに組ませることができる力を身に付ける、その瞬間まで、我慢して使うのだ。
さあ、今月からいよいよ、高卒ルーキー百花繚乱編が始まった。いわゆる、高卒選手を育てるという“育成カープ”の胎動である。次回のカープの考古学では、この高卒ルーキー大田垣に驚きの役目を負わせる石本。大田垣がいかなる結果を招くのか――。こうご期待。
【参考文献】
「中国新聞」(昭和27年2月18日、20日、22日、25日)
<西本恵(にしもと・めぐむ)プロフィール>スポーツ・ノンフィクション・ライター
1968年5月28日、山口県玖珂郡周東町(現・岩国市)生まれ。小学5年で「江夏の21球」に魅せられ、以後、野球に興味を抱く。広島修道大学卒業後、サラリーマン生活6年。その後、地域コミュニティー誌編集に携わり、地元経済誌編集社で編集デスクを経験。35歳でフリーライターとして独立。雑誌、経済誌、フリーペーパーなどで野球関連、カープ関連の記事を執筆中。著書「広島カープ昔話・裏話-じゃけえカープが好きなんよ」(2008年・トーク出版刊)は、「広島カープ物語」(トーク出版刊)で漫画化。2014年、被爆70年スペシャルNHKドラマ「鯉昇れ、焦土の空へ」に制作協力。現在はテレビ、ラジオ、映画などのカープ史の企画制作において放送原稿や脚本の校閲などを担当する。2018年11月、「日本野球をつくった男--石本秀一伝」(講談社)を上梓。2021年4月、広島大学大学院、人間社会科学研究科、人文社会科学専攻で「カープ創設とアメリカのかかわり~異文化の観点から~」を研究。
(このコーナーのスポーツ・ノンフィクション・ライター西本恵さん回は、第3週木曜更新)