第3回「何者でもない自分に還る旅 その1」
ひとつずつ荷物を下ろしていく旅の話をしたい。
荷物は、家の中や鞄の中のみにあらず。怒り、憤り、悲しみ、妬み、嫉み、不安感など、自分の底から湧き上がり、出口を知らずに心に巣食い続けるものも、荷物といえるだろう。そうした荷物が重たくなっていくと、いつしか心の骨にヒビが入り、やがてポキっと折れることがある。
そうはいっても、荷物の下ろし方どころか、そもそも自分がどんな荷物をどのくらい抱えているのか、日常生活の中では、なかなか気付くことができない。
そこで、いつもとはちょっと違う旅に出る。
9月だというのに、あちこちで蝉が鳴き叫ぶ残暑の厳しい日、私はひとり身延山へ向かった。甲府から電車で富士方面へ1時間ちょっと、そこからバスで少し行ったところにある、日蓮宗の総本山・身延山久遠寺は、鎌倉時代に日蓮聖人によって開かれたお寺であり、山全体が聖地になっている。
身延山でバスを降り、仏具や数珠を取り揃えたお店やお土産屋が立ち並ぶ門前町を進み、荘厳な三門をくぐると、スッと一気に空気が変わる。門をくぐった参詣者を待ち構えているのが、一瞬、目の前に絶壁が現れたのかと見間違うほどの、空高く聳え立つ階段である。その高低差は104メートルにも及ぶ。東京タワーの約3分の1の高さといったところか。
えいやっ! と意を決して、登り始める。すぐにこれは大変なことになったぞと気付くが、歩み始めてしまったものは引き返せない。後ろを見返す余裕もなければ、顔を上げても先は見えない。自分がいまどの辺りにいるのか、あと残りはどのくらいあるのか、何もわからないまま、かんかん照りの中、ただ一歩一歩、歩を前に進めていくしかない。さっきまで脳内を占拠していた雑念たちはどこへやら。他のことを考える余裕が一切なくなり、否応なく、今この瞬間に集中させられる。
過去を振り返らず、無理に先を見通そうとするのでもなく、いま目の前の一歩に集中すること。自分のペースで歩を進め、疲れたら休むこと。休めば回復すること。そうしたら、また一歩前に進めるはず。まるで、人生そのものみたいだ! そんなことを、滝のように汗を流しながら、体中で太鼓が鳴り響いているかのような心拍数のドドドドという音を、身をもって感じるのであった。
この石段は「菩提梯」と呼ばれ、「登り切れば涅槃に達する」という意味が込められているそうだが、無事に登り切った後の景色は格別である。辿り着いた広いお堂の中で手を合わせていると、どこからともなく風が吹いてきて、汗だくの背中を冷ましてくれる。もうそれだけで、ただただ有り難くなってくる。
何時間くらい居たのだろうか。
どこからともなく、お坊さんがお経を読む美しい声が聞こえてくる。
音は空間全体に広がってゆき、線香の匂いとともに、彼岸へと渡っていくのだろう。
身延山の山頂にある奥之院「親思閣」へは、山道を歩いても行けるようだが、階段ですっかり体力を消耗してしまった私は、ロープウェーで向かう。親思閣は、日蓮聖人が両親や恩師のことを追慕した場所だという。
前述の「菩提梯」で身体を思い切り動かし、あれほど強く心臓の鼓動を感じたのは久しぶりで、それは同時に、今ここで生きていることを強烈に実感させられることでもあった。そんな「菩提梯」を登り終え、お堂で日々お経を唱えるお坊さんたちの日常に少しでも触れることによって、自分の奥深く、さらには目には見えないものに思いを馳せることができ、そして、奥之院で、ふと思う。今ここに自分が存在していることは、数え切れないほどのご縁が重なった結果である、と。
山頂では、「串切り団子」という、「串(苦死)を切って幸福を願うお団子」を食べることができる。これは、ただのお団子にあらず、お店の方が「今からお客様の幸せを願い、お客様の苦しみを切らせていただきます。(実際に串の先を切って)はい、これで、お客様の苦しみが切れました!」というお祈り付きである。
辺りを見回すと、私と同じように、一人でお団子を頬張っている若い女性がいた。海外から来た旅行客だろうか。彼女は、どんなことを想いながら、山頂でお団子を食べているのだろう。
さて、身延山には、参詣者が寺院に寝泊まりすることのできる宿坊が現在も20カ所ほどあり、私も滞在させてもらうことにした。
宿泊先のお寺の門をくぐると、ご住職が温かく迎えてくださり、心が落ち着く。
「宿としては、簡素すぎると思われるかもしれませんが、いかに余計なものを削ぎ落としていくかが、仏教では大切なことなのです」と施設内を案内していただくが、私は、なんて心が休まる場所なのだろう、と、深く感服してしまった。
都会で生活していると、毎日、洪水のように情報が入ってくる。
スマホを開いたり電車に乗ったりするだけで、さまざまなニュースやメッセージの波が押し寄せてくる。「何もない」空間を見つけるのは、まず無理である。下手をすれば、脳は24時間、休まる時がない。
宿坊は、「何もない」で満たされている。
そして、この「何もない」で満たされた空間に身を置くことで、知らず知らずのうちに抱え込んでいた自分の荷物がひとつずつ身から剥がされていくように消えていき、心の奥底から癒されていくのだ。なんて贅沢な空間なのだろうと思う。
「宿坊で過ごす時間も修行の一つと思って過ごしてほしい」というご住職の想いから、滞在中は、ご住職と他の宿泊者と共に夕方の勤行をし、ご法話を聞かせていただき、精進料理をいただくことができる。また、お風呂場の脱衣場には、「心身を浄めることは大切な修行の一つ」ということで、お風呂の入り方の心得が書かれていたりと、仏教の教えが生活に根差したものであることを気付かせてくれる。
さて、私は、この宿坊滞在中に、かけがえのない出会いを得ることになるのだが、その話は次回にしたいと思う。
(つづく)
<今宮ライカ(いまみや・らいか)プロフィール>
日本語学校教師。国際基督教大学卒。ロンドン大学東洋アフリカ研究学院修士課程修了。趣味は世界の絵本作家動向調査。