2009年6月、法政大学が全日本大学野球選手権を制し、14年ぶりに日本一の栄冠を手にした。富士大との決勝戦は7回まで相手エースにわずか1安打に抑えられたが、8回に犠牲フライで同点に追いつくと、9回には5安打4得点の固め打ち。一気に試合を引っくり返し、最後はエース二神一人(阪神)がきっちりと三者凡退に切ってとった。最後の打者の打球が中堅手のグラブに収まると、選手たちはマウンドへと一目散に駆け寄り、「No.1」ポーズで喜びを分かち合った。その最高の瞬間を、1年生では唯一グラウンドで迎えた選手がいた。多木裕史だ。四国・香川から上京して、まだ半年にも満たない19歳のルーキーはその年、鮮烈なデビューを果たしていた。
「奇跡ですよ」
 1年目の爆発的な活躍ぶりの要因を尋ねると、多木はそう言って少しはにかんだ笑顔を見せた。当時、法政大のレギュラーメンバーを見ると、そのほとんどが3、4年生で占められている。野手に限れば、多木以外は全員、上級生という中、彼は春のオープン戦終盤からレギュラーの座を確立した。春のリーグ戦では打率3割4分1厘、チーム最多の12打点をマークしてベストナインを受賞。その余勢を駆って出場した全日本選手権では準々決勝から3番を任せられ、準決勝では4打数4安打3打点の猛打賞を記録した。終わってみれば通算打率6割6分7厘をマークし、首位打者賞に輝いた。11月にはプロ野球のセ・パ誕生60周年記念として開催された交流戦で大学日本代表に選出され、U−26NPB選抜チームと対戦した。

 こうした華々しいデビューにも、彼は一切、浮き足立つことはない。
「自分は1年生でしたから、どのピッチャーも初めての対戦。甲子園に出場したわけでもありませんし、完全にノーマークだったんです。ピッチャーはみんな、『多木? 誰だよ?』となんとなく投げてきているような感じでした。だから、あんなに打つことができたんだと思います。自分自身もリーグ戦の戦い方もつかめていなかったし、手探り状態でやっているところはありました。気がついたらヒットを量産していましたが、自分ではそれほど手応えをつかんだという感じではなかったんです。もちろん、自信が全くなかったわけではありません。でも、まさかあそこまで打てるとは思ってもみませんでした」

 多木が最も印象に残っているのは、全日本選手権の準々決勝・関西国際大戦だ。前述した通りこの試合、彼は4打数4安打の猛打をふるった。初回に先制タイムリーを放つと、同点に追いつかれた3回には勝ち越しタイムリー。さらに5回にもタイムリーを放ち、結果的にこれが決勝点となった。大会を通して絶好調だった多木は、どんな球が来ても「打てる気しかしなかった」という。よくアスリートは「神がかっていた」「何かが降りてきた」と言うが、この時の多木もまた不思議な感覚をつかんでいた。
「どんなピッチャーが来ても、全く怖くなかった。とにかくバッターボックスに立つと、なぜか打てる気がしていたんです」

 その感覚は今もなお続いているという。1年秋は2割8分6厘、2年春は2割3分8厘、同秋は3割1分9厘。数字の上ではいずれも1年春を下回っているが、多木自身の中では決して調子は悪くない。バッターボックスに立てば、いつでもヒットを打つイメージは出来上がっているのだ。
「結果はあまり気にしない。自分自身で調子が悪くなかったら、結果がどうであれ、『いや、いい感じだ』と思って開き直ります」
 結果が出なければ、焦りが生じるものだが、多木にはそれがない。いや、決して見せない。自らを信じる強さ――。これこそが多木裕史という選手の核となっているに違いない。

(第2回につづく)

多木裕史(たき・ひろし)
1990年5月12日、香川県丸亀市生まれ。小学4年から軟式野球をはじめ、高校は父親が監督を務める坂出高に進学。遊撃手兼投手として活躍し、2年時には県大会準決勝に進出した。法政大では1年春からレギュラーを獲得し、打率3割4分1厘、チーム最多の12打点をマーク。ベストナインにも選ばれた。さらに全日本大学選手権では打率6割6分7厘をマークし、首位打者賞を獲得。同大14年ぶりの日本一に大きく貢献した。177センチ、74キロ。右投左打。








(斎藤寿子)
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