「体に力のある子だと思いました。懐に入っていなくても強引に力でねじ伏せることができましたから」
 そう中矢の第一印象を振り返るのが、新田高柔道部・浅見三喜夫監督だ。娘の八瑠奈(山梨学院大)と同じ伊予柔道会に通っていたこともあり、小さい頃から、その柔道を見続けてきた。
 中矢が新田を選んだのは、何より地元の高校だったからだ。中学で一緒に柔道をしていた仲間たちとともに進学できることも大きかった。
「天真爛漫で人懐っこい性格です。部内でムードメーカー的存在でした。柔道にもそんな性格がよく表れていましたね。本能のまま、相手を倒していた感じでした」
 そう当時を振り返る浅見監督から、中矢は個人的に指導を受けた記憶があまりない。「それぞれのスタイルをつくるのは個々の選手次第」との方針の下、稽古を重ねた中矢は高校2年でインターハイを制する。翌年にはロシアジュニア国際でも優勝し、海外でも結果を残した。

 中矢の存在感が際立ったのは個人戦だけではない。団体戦での活躍も光った。
一般的に団体戦では先鋒から次鋒、中堅、副将、大将と進むにつれて、階級の大きな選手を起用する。しかし、当時の新田には重量級の有力選手がいなかった。体の力が強く、大きい相手を苦にしない中矢は、必然的に階級が上の選手と顔を合わせることになる。

 中矢が高2の時のインターハイでは、対大牟田(福岡)戦で100キロ超級2位の藤本耕司(現国士舘大)と対戦。背負い投げで技ありを奪って優勢勝ちし、チームのベスト8入りに貢献した。秋の国体では少年の部で県代表の大将を務め、各県の100キロ級、100キロ超級の選手を相手にひとつも負けなかった。本人も「高校時代でもっとも印象に残っている」と振り返る大会で、愛媛は準優勝をおさめた。

 ただ高3に入ると、結果こそ残していたものの、中矢の柔道は曲がり角にさしかかっていた。
「良くも悪くもワンパターンな柔道。何回もやっていると読まれてしまう」(浅見監督)
 インターハイでは決勝まで勝ち上がったものの、なかなか一本が奪えなかった。決勝では1学年下の森下純平(鶴来、現筑波大)にうまくかわされ、焦って技をかけたところを返されて敗れた。

 その年の講道館杯では周囲の予想を覆して勝ち進み、決勝に進んだ。シニア大会での初優勝をかけて対戦したのは粟野靖浩(筑波大)。だが、思うように攻められず、主導権を握れない。
「先に攻められてポイントをとられたのが敗因です。攻める気持ちが足りなかった……」
 この頃の中矢を恩師は「仕掛けが遅く、柔道が小さくなっていた」と指摘する。講道館杯を3度目の正直で制し、ようやく国内の頂点に立ったのは昨年のこと。壁を突き抜けるには3年の月日が必要だった。

(最終回へつづく)

<中矢力(なかや・りき)プロフィール>
1989年7月25日、愛媛県出身。5歳から柔道を始め、小学校時代は県内でほぼ無敵の強さを誇る。松山西中を経て、新田高2年の時にインターハイ73キロ級で優勝。翌年(07年)、ロシアジュニア国際を制し、シニアの大会でも講道館杯で準優勝を収める。東海大学進学後は、09年、10年と学生体重別を連覇。10年には3度目の決勝進出で講道館杯を初制覇。その余勢を駆って、同年12月のグランドスラム東京、11年2月のグランドスラムパリに連勝。IJFランキングで一気にトップ10入りを果たし、ロンドン五輪の代表争いに名乗りを上げている。



(石田洋之)
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