大阪出身の酒井光次郎だが、高校は愛媛県の強豪・松山商に進学した。
「中学の先輩のお父さんが松山市出身で、そのおじさんにあたる方が松山商の窪田欣也監督だったんです。それで先輩を筆頭に、うちの中学からは毎年のように松山商に行く選手がいました。僕もその流れで行った一人ですね」
 中学時代、何度か松山商の練習を見に行ったことがあったが、そのあまりの厳しさに度肝を抜かれた。しかし、同時に「ここで野球をやってみたいな」という憧れの念を抱いた酒井は、中学卒業後、大阪を離れて海を渡った。
 松山商野球部は酒井の代から全寮制となった。寮には監督の家族が一緒に住み、監督の奥さんが選手の食事の用意をしてくれていた。厳しい練習と同時に、酒井に課せられたのは体づくりのための食事摂取だった。
「僕はあまり体が大きくないので、とにかく力をつけなければいけないということで、監督には『しっかりと食事を摂れ』と口を酸っぱくして言われました。食堂での席はいつも監督の隣に座らされたんです。というのも、僕は一人っ子でしたから、結構わがままなところもあったんです。食事もどちらかというと、自分の好きなものを食べる傾向があった。それを監督は見抜いていたんですね」

 1年生の時、こんなことがあった。当時、野球部員は寮以外での食事は、原則として禁止されていた。しかし日ごろ、「たまには自分の好きなものを思いっきり食べたい!」と思っていた酒井は、ある日の練習後、同級生と一緒に外食をした。素知らぬふりをして寮に戻ってきた酒井は目を疑った。食堂にはいつも以上に豪華なごちそうがズラリと並んでいたのだ。実は当時、選手の誕生日には誕生会が開かれており、ちょうどその日がそれにあたっていたのだ。

「これはやばい……」
 そんな酒井の気持ちを知ってか知らぬか、窪田監督の声が飛んできた。
「酒井、オレの隣に座れ!」
 すごすごと席に着いた酒井は、苦しさをひたすら隠しながら、なんとか自分の分を食べ終えた。ほっとしたのも束の間、再び監督の声が飛んできた。
「オレの分も食え!」
 いくら監督の命令でも、もう一口も入らない。こうなったらやることは一つだった。
「すみません、ちょっとトイレに行ってきます……」
 苦肉の策でお腹を減らした酒井は、なんとか監督の分も食べ終えた。

 こうして酒井は毎日3食、しっかりと食べ続けた。だが、いくら食べてもなかなか体重は増えてくれない。その原因の一つは練習の厳しさにあった。
「とにかく走らされましたよ。それこそ3時間、4時間ずっと走りっぱなしなんてことも珍しくありませんでした」
 練習が終わり、居残っていた部員たちも一人、また一人と寮へと帰っていく中、酒井は一人、黙々と走った。既に外は真っ暗で、校舎にも人影は見えない。グラウンド横にある部室だけが光を灯していた。

「監督はもう、その頃になると、グラウンドにはいませんでした。寮に帰って奥さんと食事の支度をしなければいけなかったですからね。マネージャーだけが僕が終わるまで部室に残ってくれていました。そのマネージャーに監督から『終わっていいぞ』という電話がかかってくるまで、終われなかったんです」

 中学まで主にファーストを守っていた酒井をピッチャーに転向させたのは、窪田監督だった。サウスポーというのが主な理由だったというが、それだけではなかっただろう。ピッチャーとしての素質を監督は見抜いていた。だからこそ、酒井に対して厳しかったのだ。食事も練習も、全て酒井への期待感の表れだったに違いない。その期待通り、酒井は1年秋からエースナンバーを背負った。そして県大会で優勝すると、四国大会でベスト4に入り、春としては17年ぶりの甲子園に出場した。

 大阪出身の酒井にとって、甲子園は馴染みのある球場だった。何度かプロ野球を観戦しに行ったこともあった。しかし、実際に足を踏み入れると、それまでスタンドから見ていたのとはまるで違う世界だった。
「これが甲子園か……」
 真新しい電光掲示板がまぶしく光っていた。

 初戦の相手は取手二高(茨城)だった。同校は“木内マジック”で知られる名将・木内幸男監督が采配をふるっており、その年の夏、“KKコンビ”擁するPL学園を延長の末に破り、優勝するほどの強豪校だった。初回、酒井はその取手二高に先制を許した。
「先頭打者はその年のドラフト2位で近鉄に指名された吉田剛さん。その吉田さんのバットがキャッチャーのミットに当たって、いきなり打撃妨害を取られたんです。まだ緊張も解けていない中で予想外の出来事が起きたもんだから、『えっ!?』って感じでした。その後は僕も打たれましたし、バックのエラーも絡んで……」

 初回に1点、4回表には一挙3点を奪われたが、その裏、松山商も4点を奪い返し、試合を振り出しに戻した。ところが、5回表にすぐに3点を取られて、再び勝ち越された。その後、松山商は得点を追加することができず、結局4−8で初戦敗退を喫した。
「初めての甲子園はやっぱり緊張しましたね。自分がやれることを精一杯やろうと思って投げましたけど、通用しませんでした」
 夏での雪辱を心に誓い、酒井は肌寒い甲子園を後にした。
(第3回につづく)


酒井光次郎(さかい・みつじろうプロフィール>
1968年1月31日、大阪府生まれ。小・中学校時代は主にファースト。松山商入学後に投手に転向した。1年秋からエースナンバーを背負い、2年の春、夏には甲子園に出場する。春は初戦敗退するも、夏はベスト8進出。準々決勝で“KKコンビ”擁するPL学園と対戦し、1−2で競り負けた。近畿大学時代には3、4年と全日本大学選手権連覇を果たす。1990年、ドラフト1位で日本ハムに入団。1年目で10勝をマークし、パ・リーグ会長特別表彰を受賞した。97年に阪神に移籍し、その年限りで現役を引退。98年からは台湾ナショナルチームの投手コーチを務め、2004年のアテネ五輪出場に貢献した。05年、統一ライオンズの投手コーチに就任。08年から3年間は横浜のスカウト、スコアラーを務めた。今季、信濃グランセローズの投手コーチに就任した。







(斎藤寿子)
◎バックナンバーはこちらから