西本恵「カープの考古学」第81回<高卒ルーキー百花繚乱編その4/高卒ルーキー初先発、初回三者連続三振!>

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 カープは創設3年目の昭和27年、深刻な投手不足に陥っていた。名古屋軍にかくまわれていたエース長谷川良平が、カープ復帰を果たしたものの、体が仕上がっておらず、開幕戦に間に合わなかった。そんな窮状を救ったのが、高卒ルーキー投手の大田垣喜夫(後の備前喜夫)だった。強打松竹ロビンス打線との開幕戦で7安打1失点に抑え、プロ初先発、完投勝利を収めたのだ。

 

第2戦の先発も高卒ルーキー

 意気上がる中、開幕2連勝と期待がかかった。この大役を担ったのが、大阪興国商業出身の松山昇である。

 松山自身、先発の予感がないわけではなかった。松山によれば、先発を告げられたのは、前日だった大田垣とは違い、当日であったという。生前に松山へのインタビューを基に記す。

 

 開幕戦を4対1で快勝して臨む第2戦目、場所は福山球場。バスに乗っての移動中、監督の石本秀一は松山に伝えた。

 

「今日はマツ(松山)や!」

 

 これに驚いたのは松山だ。

「いやあ、びっくりしましたよ。その日に言われるんですから……」。ただ、松山は石本のやり方を、うすうす感じていたのである。

「だいたいそういうやり方だったですよ。それは、一年通じて(みると)、前の日に言われたこともありますが、初先発は、確かその日でした。自分は準備しているような、していないような感じにしていました。みんな、毎日でも投げないといけないような状態でしたから」

 

 常に準備をさせられていたこともあってか、おおよそこの日の先発ではないかと心構えができていたというのだ。後に松山は冷静な分析をしている。

「当時は、ピッチャーは高校出ばかりとっていました。大学出はとれない。自分は高卒で、運がよかったと思う。ピッチャーの数が足りなくてしょうがなかった。そのシーズンの始まったときには、大田垣が投げました。それで勝ったんです。二戦目が私で、ノックアウトされました。2、3回ぐらいまでで、その時は、すぐダメになった。監督は高卒の新人を意識して出したんでは……」

 

 戦力不足を補うために、石本は、高卒の新人選手を抜擢したのである。3月22日、対戦相手は、前日に続き松竹ロビンスである。連日の水爆打線と新人投手の対戦である。

 

 1番の金山次郎が打席に入った。松山の程よい緊張感が、ボールに乗り移ったのか、三振に仕留めた。

 続く2番の網島新八を連続三振。沸き上がるカープファンである。さあ、ここで迎えるは3番の小鶴誠である。1、2番を連続で仕留めた自信からか、松山の集中力は途切れることなく、小鶴を三振に切って取ったのだ。

 

松竹打線の意地

 

<一回松竹を三者三振に打取って新人らしからぬ好調なスタートを切った>(「中国新聞」(昭和27年3月23日)

 高卒新人が、水爆打線とまで言われた松竹の出鼻をくじいた。松山は先発を任される予感を感じながら、この日を迎えていることもあってか、驚きのピッチングを披露してみせたのだ。

 

 カープの高卒新人おそるべし……。

 こうなると、2回のピッチングにも期待がかかる。松山は期待に応えるべく、4番の三村勲、5番の吉田和生を打ち取った。このままいけば、前日の大田垣を上回る成績が残せるかと誰もが思った。

 

 しかし、松山は数日前まで高校生だったのだ。ここからが急転直下で転げ落ちる。6番の小林章以降、小刻みにランナーが溜まり、2巡目を迎えた。前の打席では三振に切って取った金山らに長打を浴びてしまった。一挙4点を挙げられ、松山の勢いは、ここまでだった。

 

 3回表をなんとか0点に抑えたところで、お役御免となり、マウンドを渡辺信義に譲った。松竹打線には、連日、新人投手にやられてなるものかの思いが強かったのだろう。

 

 今までのカープなら、このままずるずるとやられるはずであるが、リリーフした渡辺が好投を続けた。その後、松山の大阪興国商業の先輩、笠松実とつないで、ゼロに抑えた。これに対し、松竹ロビンスのエース小林恒夫の出来は普段より悪かった。これにつけ込んだのは、岩本章だった。

<三回裏二死後、岩本の左翼ホーマーを皮切りに追撃に移った>(「中国新聞」(昭和27年3月23日)

 

 この一打から、じりじりと追い上げるカープは、毎回のように四球を選び、ランナーを出した。松竹は6回途中から、エース小林をあきらめ、島本和夫を送り込んだ。しかし、その島本がピリッとしない。8回裏、福山球場に春雨が降った。この雨がカープに味方したのか、ノーアウト一、二塁のチャンスを迎えた。カープベンチは代打・紺田周三を送った。この紺田のツーベースをきっかけに、この回3点を挙げて追いついた。これにより松山に黒星は消えた。

 

笠松実からの天の声

 松山とカープとの縁は、高校出身の先輩である笠松が先に入団していたことが大きい。笠松は昭和25年に入団して、エース長谷川らと共に先発を担っていた。

 

 松山は石本と笠松にカープ選手寮の御幸荘近くの公園で、実際にピッチングを見せた。その時のことを生前、松山はこう語っている。

「フォームを見ただけで入団してもええというので決められた。近くの公園やったと思います。皆実町、御幸荘の近くで、選手の人が合宿をしていましたからね。その近くの公園でしたっけ、はっきり覚えていないんですがね。ちょっとキャッチボールをしてみいと、誰に受けてもらったか、憶えていない。ほいで、投げた格好をみただけでオッケーというようなことになったんですわ。ちょっとびっくりしたんです。笠松さんと石本さんが一緒に見ておられた」

 

 石本は投手がプロ志望とあれば、まず、投げさせてみる。近くの公園でという設定があまりにも多いのが当時らしいが、必ずその投げ姿、いわゆるピッチングフォームをじっくりと見てからの入団となるのが石本の投手選びの特徴であった。

 

 石本は、草創期にはありとあらゆるネットワークを駆使しながら、高卒新人を獲得していく。これは、カープ球団が後援会を結成し、球団経営資金を得られるようになってからも潤沢な資金があったわけではないからだ。しかし、ただ単に、資金不足を高卒選手で補うという発想でもなかったのだ。

 

 過去、石本は大阪タイガース監督時代に、酒や遊びなどで大学時代を謳歌し過ごした選手の指導に手を焼いたことがあった。しかし、世間に毒された選手らと違い、高卒選手は純粋に野球の練習に打ち込み、最初に入団したチームカラーに染まりやすいという面があった。こうした視点から、高卒選手の獲得に積極的であったのだ。良い素材を鍛えて伸ばすという、後々まで伝統となる“育成のカープ”が培われたのはこの年からである。

 

 さらにこのシーズンの直前に、石本監督は、ある選手に目を留めた。大卒でもなく、社会人上がりでもなかったが、高卒でもなかったのだ。在学中の高校生を獲得する、という驚きの事態が発生するのだ。さて、その高校生選手に勧誘の手を伸ばしたのは、いったいなぜか――。次回の考古学では、その真相に迫る。

 

【参考文献】

『広島商業野球部100年史』(広島県立広島商業高等学校)、『カープ50年―夢を追ってー』(中国新聞社)、「中国新聞」(昭和27年3月23日)

 

 

西本恵(にしもと・めぐむ)プロフィール>スポーツ・ノンフィクション・ライター
1968年5月28日、山口県玖珂郡周東町(現・岩国市)生まれ。小学5年で「江夏の21球」に魅せられ、以後、野球に興味を抱く。広島修道大学卒業後、サラリーマン生活6年。その後、地域コミュニティー誌編集に携わり、地元経済誌編集社で編集デスクを経験。35歳でフリーライターとして独立。雑誌、経済誌、フリーペーパーなどで野球関連、カープ関連の記事を執筆中。著書「広島カープ昔話・裏話-じゃけえカープが好きなんよ」(2008年・トーク出版刊)は、「広島カープ物語」(トーク出版刊)で漫画化。2014年、被爆70年スペシャルNHKドラマ「鯉昇れ、焦土の空へ」に制作協力。現在はテレビ、ラジオ、映画などのカープ史の企画制作において放送原稿や脚本の校閲などを担当する。2018年11月、「日本野球をつくった男--石本秀一伝」(講談社)を上梓。2021年4月、広島大学大学院、人間社会科学研究科、人文社会科学専攻で「カープ創設とアメリカのかかわり~異文化の観点から~」を研究。

 

(このコーナーのスポーツ・ノンフィクション・ライター西本恵さん回は、第3週木曜更新)

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