Jリーグが始まってから、20年近くになる。
 日本サッカーの長足の進歩――1998年フランス大会からの4大会連続のW杯出場は、Jリーグでプレーしてきた選手たちの積み上げの結果だ。そこに、大きく力を貸したのが、ジーコを始めとした、ブラジル人選手たちである。

(写真:フリューゲルスで活躍したエドゥー 撮影:西山幸之)
 2010年南アフリカ大会の直前、ぼくはこうしたブラジル人たちを訪ねて回ることになった。彼らは自分たちが日本サッカーの歴史の中にいることを強く意識している。日本から離れた後も、日本と連絡を取り合い、日本の情報を得ている(もちろん、何人かの例外はいる。例えば、元日本代表監督のファルカン)。
 現在も日本との距離を保っている彼らが日本サッカーの変化をどのように見ているのか、聞いてみたかったのだ。
 ぼくはジーコ、あるいはドゥンガ、ジョルジーニョなどには定期的に話を聞いている(ドゥンガとジョルジーニョの2人は、ブラジル代表スタッフだったので、今回はとても会える状態ではなかった)。だから、それ以外の選手と会うことにした。真っ先に頭に浮かんだのが、元横浜フリューゲルスのエドゥー・マランゴンだった。
 あのフリーキックのエドゥーである。
 エドゥーは63年にサンパウロで生まれた。初めてプロ契約を結んだのは、ブラジルのポルトゲーザだった。87年にはブラジル代表に選ばれ、同年のコパ・アメリカに出場した。
 89年にはイタリアのトリノへと移籍。その後、フラメンゴ、サントス、パルメイラスと、ブラジルのクラブを経て、93年にフリューゲルスに入った。
 ぼくの頭の中では、40メートルもの距離からフリーキックを何度も決める姿が残っていた。彼の左足から放たれたボールは、美しい弧を描き、ゴールに吸い込まれていった。それはまさに吸い込まれていったという表現が相応しい。しかし、実際に調べてみると、エドゥーがJリーグでプレーしたのは、たった2年間に過ぎないことに気がついた。それにも関わらず、Jリーグのフリーキックの名手といえば、エドゥーの名前を挙げる人は多いだろう。それだけ短期間で強烈な印象を残していたのだ。
 彼はフリーキックだけではなく、非常にバランスのいい選手だった。彼がボールを持つと、正確な長いパスを左右に散らし、対戦相手に攻撃の的を絞らせなかった。時にダイレクトパスで、時に間合いを計ってパスを出し、味方の持ち味を生かした。
 ぼくは何度もエドゥーのプレーを目の当たりにしている。エドゥーは、憧れの選手の1人でもあった。それにも関わらず、1度も会ったことがなかった。
 エドゥーは現役引退後、指導者になっていることは知っていた。調べてみると、サンパウロ州のサントスに住んでいることが分かった。

 サントスはサンパウロから約60キロほど離れた港町である。飛行機がなかった時代、内陸部のサンパウロに行くには、サントスの港で降りなければならなかった。
 サンパウロとサントスの間には、山脈がそびえている。かつてサントスの港についた移民は、船を下りると鉄道に乗せられ、3時間掛けて山を越えなければならなかった。列車は、黄、白、紫など様々な色の花の咲いた原生林の中を走った。時折、緑が切れたところに、岩が顔をのぞかせていた。幾条もの水が岩肌を伝って、谷間に落ちていく壮大な風景に、日本からの移民は目を奪われたという。
 現在は高速道路を走れば、30分ほどで到着する。山頂に近づくと、気温は下がり、霧に包まれていることも多い。そして山を下るにつれて、湿気を含んだ重く暖かい空気に変わっていく。
 サントスは港町特有の開放的な空気が流れている。海と温暖な気候に誘われて、サントスに別宅を持っているサンパウロの人間もいる。
(写真:サントスに向かう山頂は、この日も霧に包まれていた)

 今回、話はエドゥーのマンションで聞くことになっていた。マンションは、海から近い街の中心部にあった。エレベータで上がり、扉の前に立つと、中から犬の鳴き声がした。
 扉を開けて迎えてくれたのは、丸い目に、高い鼻――ピノキオのよう顔をした、あのエドゥーだった。
「犬を奥の部屋に入れるので、ちょっと待ってくれるかい?」
 しばらくして、再びエドゥーが扉を開けた。廊下には、フリューゲルス時代のポスターが飾ってあった。ソファーのあるリビングには大きな窓があり、遠くに海が見えた。
「海まで、50メートル。この一角には、銀行、映画館、バール、海、全てがある。自動車に乗らなくても生活できるんだよ」
(写真:サントスといえば、もちろんサントスFCである。クラブの前にあるバールには、そのマークが描かれている。)

 ぼくはエドゥーのプレーを何度も見て、今日会えるのを楽しみにしていたのだと挨拶すると、エドゥーはにこりと笑った。
「まだ日本にはぼくのファンクラブがあるらしいね。この間、行った時も、ぼくの名前を知っていることに驚いたよ」
 前年の2009年10月、ブラジルのアトレチコ・ソロカーバの監督として、エドゥーは久しぶりに日本を訪れていた。
 ソロカーバは、湘南ベルマーレと練習試合をすることになっていた。試合会場となる味の素スタジアムの第2グラウンドで練習をしていた時のことだ。
 たまたま練習していたFC東京の若い選手がエドゥーに「コンニチハ」と挨拶をした。
 エドゥーのことを知っている訳ではなく、外国人がいたので、冗談で声を掛けたという風だった。それを見たFC東京のコーチはその選手を呼んで、耳元でなにやら囁いた。すると、若手選手はバツが悪そうな顔をして、エドゥーのところに駈け寄ってきた。
「フリーキックのエドゥーさんですね。ぼくは、子どもの頃、あなたのフリーキックに憧れていたんです。フリーキックの蹴り方を教えて下さい」
 練習試合の相手、ベルマーレの監督は、フリューゲルス時代のチームメイトである反町康治だった。
「15年、いや16年ぶりの再会だったかな。彼が監督として成功しているのは知っていた。選手の時から、将来どうするかを考えていた男だったよ。頭が良くて、スペイン語も上手く話すので、コミュニケーションもとれた。監督同士で再会できたことは、本当にうれしかったね」
 ベルマーレとの試合は、1対2で敗れた。  
 アトレチコ・ソロカーバは、サンパウロ州の2部リーグに所属している。代表経験のある選手はもちろんいない。
 試合の前日に30時間もの間、飛行機に乗って日本に到着した。国際試合の経験のない選手たちは、時差により、身体の調子が狂うことを知らなかった。エドゥーは、「すぐに身体を動かせ」と宿泊しているホテル近くの公園で選手を走らせた。しかし、選手の動きは明らかに精彩を欠いていた。
 もっとも、この遠征の主たる目的地は、日本ではなかった。この練習試合によって、コンディションを上げることだった。  
 次の目的地――それは北朝鮮の平壌だった。そこでエドゥーは不思議な経験をすることになる。

(つづく)

田崎健太(たざき・けんた)
 ノンフィクションライター。1968年3月13日京都市生まれ。早稲田大学法学部卒業後、出版社に勤務。休職して、サンパウロを中心に南米十三ヶ国を踏破。復職後、文筆業に入り著書多数。現在、携帯サイト『二宮清純.com』にて「65億人のフットボール」を好評連載中(毎月5日更新)。2010年2月1日『W杯に群がる男達−巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)を刊行、さらに4月『辺境遊記』(絵・下田昌克、英治出版)を刊行。






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