逆風の中でも“可能性”を諦めなかった大学サッカー

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 FIFAなどによって設立された研究・教育機関「CIES」の調査によると、各国リーグにおける20歳以下の選手の出場時間の割合が、Jリーグは世界50カ国の中で2番目に低いのだという。さまざまな原因はあるのだろうが、そのひとつに、大学サッカーの存在が関係しているのは間違いない。日本は、世界でも極めて稀な、大卒の代表選手を常時輩出している国だからである。

 

 振り返ってみれば、日本サッカー黎明期の主役は学生たちだった。今年で105回を迎える天皇杯は、昭和35年の第40回大会まで、企業チームの優勝がなかった。8回の優勝を重ねた慶応BRBは、依然としてこの大会の最多優勝チームであり続けている。

 

 だが、次第に育成を教育機関に丸投げする弊害も目につくようになった。日本が本大会出場を逃した最後の大会でもあるバルセロナ五輪の予選でも、主力選手はほとんどが大学生だった。彼らは、韓国はもちろん、中国に対しても明らかに力負けをしていた。

 

 ところが、わずか4年後のアトランタ五輪予選では、状況は激変していた。Jリーグが発足したこともあって、圧倒的多数の有望選手が、軒並み高校卒業と同時にプロの世界に飛び込んでいた。大学進学という道を選択したメンバーは、服部年宏(現磐田U-15監督)ただ一人だった。

 

 かつて、マンUにスティーブ・コッペルというドリブラーがいた。専門誌だったか「ダイヤモンドサッカー」だったか、彼を紹介する際に「リバプール大学卒」との経歴が付け加えられていたことを覚えている。それぐらい、欧州における大卒選手は稀な存在であり、どうやら日本も同じ道を辿りつつある、というのが当時のわたしの印象だった。

 

 だが、時代からも、世界の潮流からも完全に取り残されたかに思われた大学サッカー関係者は、自分たちの可能性を諦めなかった。以前とは違い、その年代のトップクラスが入ってくることは少なくなっていたが、大学卒業時にはJのクラブから引く手あまたな選手を輩出するようになった。もし大学サッカーが時代の流れにのまれ、斜陽化の一途を辿っていたら、どうなっていたのだろう。W杯カタール大会に出場したメンバーのうち、9人は大学を経由してのプロ入りだった。

 

 わたし自身、日本サッカーが急速に国際競争力を高めた最大の要因は、Jリーグの発足にあると思っていたし、いまも思っている。ただ、新たなプロリーグが誕生したことによって間違いなく逆風にさらされたであろう大学や高校の関係者、指導者の情熱が果たした役割の大きさに、あらためて驚かされている。

 

 素晴らしく合理的に思えた欧米の育成システムは、しかし、落後者に対して極めて厳しい側面をもっていた。かつ、日本ではまだ「発展途上」と温かい目で見られる世代でさえ、大金がからむことで性急に結果が求められるようになった。その厳しさによって成長を促される選手もいるが、たとえばセバスチャン・ダイスラーのように若くして燃え尽きてしまう選手もいる。

 

 わたしの知る限り、日本ほど高校や大学の育成力が充実している国はない。そして、本筋とは違うルートが保存されたことで、日本の選手層は確実に厚くなった。切り捨てられていてもおかしくなかったシステムの存続には、当事者たちの反骨精神プラス、日本人特有の「もったいない精神」も関係していたのかなと、最近になって思い始めている。

 

<この原稿は25年2月6日付「スポ-ツニッポン」に掲載されています>

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