第808回 イチロー育てた“平成の名伯楽”
日本人、いやアジア人として初めて米野球殿堂入りを果たしたイチローは、感謝する人物として弓子夫人とともにオリックス時代の監督・仰木彬の名前をあげた。
<この原稿は2025年2月17日号『週刊大衆』に掲載されました>
1994年にオリックスの監督に就任した仰木は、登録名を本名の鈴木一朗からカタカナ名のイチローに変えるよう求めた。これで注目を集めたイチローは、NPB最多となる210安打(当時)をマークし、大ブレイクするのである。
当時のイチローは、右足を、時計の振り子のように使う“振り子打法”をトレードマークにしていたが、結果を出すまでは否定的な声の方が多かった。
しかし仰木は、「打ち方は独特だが、フォームは理にかなっている」と言って、周囲の雑音に一切耳を貸さなかった。
「彼はバットの芯に当てるのが、ものすごくうまかった。まるでバットにボールの芯が吸い付いているんじゃないかと思うくらい。よく見るとトップの位置が変わらない。これはもう見事でした」
まだ実績のないイチローに、こうしろ、ああしろと手とり足とり指導していたら、その後の活躍はもとより、日米での殿堂入りもなかっただろう。
イチローは92年の入団だが、この年、最も期待されたルーキーは大卒の田口壮。ドラフト4位のイチローに対し、田口は1位。大型ショートとして将来を嘱望された田口だが、3年もたたないうちに外野手に転向した。原因はイップスだった。
仰木の前任の土井正三は、フォームの改造を命じたが、イップスは一向に改善されなかった。むしろ日に日に“病状”は悪化していった。
仰木も監督就任当初こそ田口をショートで起用したが、送球ミスを連発すると、すぐ見切りをつけた。
「オマエは外野の方が合うとるやろう」
レフトにコンバートされた田口は矢のような送球で、何度も味方の窮地を救った。その姿は、さながら“水を得た魚”。仰木こそは“平成の名伯楽”だった。