西本恵「カープの考古学」第83回<高卒ルーキー百花繚乱編その6/長谷川復活、新戦力入団!>
カープ3年目のシーズンは苦しい幕明けとなった。弱小カープを支えてきたエース長谷川良平が、広島に帰還したのはシーズン開幕の前日であった。開幕当初、石本秀一監督は、高卒新人投手らを起用しながら、しのいでいた。
しかし、長谷川はやはりエースであった。彼が帰還した広島駅ではファンらの手で「長谷川、おかえりなさい」の横断幕が掲げられた。ヤグラが組まれ、そこに立たされ、大歓待を受けた。バンザイ、バンザイで、盛り上がるカープファン。すぐに選手宿舎の御幸荘へ行き、広島総合球場に向かった。長谷川はトレーニング不足で瘦せこけた体であったが、集まったファンに自身の弱みを見せなかった。
長谷川は<「一日も早く調子を回復して、投げ抜き、立派な成績をあげることが私の進むべき唯一の道だと思っています」>(「中国新聞」昭和27年3月21日)と語り、こう力強く続けた。
<「ランニングだけはしていたので、十日あまり練習すれば投げられると思います」>(同前)
この10日あまりでマウンドに立つという決意はファンを大いに期待させた。ただし、気になるのは、4カ月近くボールを握っていない体だ。痩せて青ざめた表情からはプロとしてマウンドに立つことなど到底想像がつかぬものであった。過去2シーズンにわたり、エースとして奮闘してきた身であっても難しいだろうというのが大方の見方であったはずだ。
しかしながら、長谷川は有言実行の男である。そのコメントをした日から、わずか14日後、まさに“10日あまり”での先発マウンドに立つのである。4月5日、広島総合球場での阪神戦でマウンドに立った。阪神の先発は梶岡忠義で、前年13勝をあげた。試合は7回裏を終わり、0対0の息の詰まる2人の投げ合いとなった。わずか2週間で長谷川は、エースらしい体をつくりあげてきたのだ。
ファンのために投げると心に決めた長谷川であったが、最大のピンチが8回表に訪れた。阪神・梶岡は味方打線がふるわない中、自身のバットでレフトオーバーの二塁打を放った。この年、2割5分9厘の打率を残す梶岡は、単なる9番目のバッターではなかったのだ。さらに、先頭の後藤次男がファアボールを選んで一、二塁とすると阪神は、2番の白坂長栄にバントをさせた。
ここでカープ守備陣が三塁で封殺し、なんとか進塁を防いだのだが、まだワンアウト一、二塁とランナーが残った。続く3番の金田正泰にライト前へはじき返された。
ついに、1点献上か――と思いきや、次の瞬間、ライトを守る紺田周三が矢のような送球をホームへ送った。
タッチアウト――。審判の声に沸き返ったファン。
さあ、ここで迎えるは4番の藤村富美男であるが、石本監督は敬遠で満塁策を選んだ。二死満塁となり、絶体絶命のピンチは続く。
5番の渡辺博之の打球は、二塁とライトの間にふらふらとあがる小飛球であった。これをセカンドの山川武範が、懸命に追っかけて見事にキャッチしてみせた。このプレーで流れを譲らず、エースの必死の投球にここ一番の守りで支えた。
<廣島は八回のピンチを、紺田(周三)山川(武範)の美技に切り抜け>(「中国新聞」昭和27年4月6日)
美技と称されるほどのプレーに、ファンも沸いた。普段は野手陣に足を引っ張られることが少なくなかった長谷川であるが、ボールも勢いづき、チームもノリにノッていく。
その裏、8回カープの攻撃では、好守をみせた山川がツーアウトながら四球を選び、その後の大澤のバットが炸裂する。
<大澤殊勝の三塁打で、阪神に先勝した>(同前)
待望の先制点をあげて勝利を決定づけた。エース長谷川が戻ってきたのだ。ナイン全員で歓迎するかのような守りと攻撃で、チームを盛り立てた試合であった。この日でもって、カープは長谷川引き抜き事件のすべてを一掃したかのような気持ちに浸ることができた。
“負傷兵”ばかりのカープ
長谷川の帰還を内外に知らしめる試合を終えた中で、やっと上昇していくかにみえたが、この時期の選手らは万全の状態でなかった。上向いていくかにみえて、そうならないチーム状態であった。
<カープ選手に負傷兵があまりに多いのが痛々しかった>(「中国新聞」昭和27年4月3日)
負傷兵とはうまく言ったものだが、捕手で守りの要となる藤原鉄之助が、背骨にヒビが入ったと伝えられた。さらに塚本(博睦)は、二塁打性の当たりを左中間にかっ飛ばしても、<足がくじけたのか匍匐前進で一塁どまり>(同前)という試合があった。
ほふく前進で走らなければならないほど塚本の足の状態は酷かったのだ。また先の山川も、肩に不安を抱えていたことからトレーニングが充分にできず、<ヒット性の快打をトレイニング不足の鈍足で一塁アウト>(同前)と散々な状態だった。
この頃のチーム状況は、<不幸なことには、最初から山川、塚本、白石、藤原、大田垣(喜夫)、渡辺(信義)、笠松(実)らがぞくぞく負傷し、ベストメンバーの陣容で戦った試合もまれであった>(「中国新聞」昭和27年4月9日)と、上向きそうで上向かない日々に耐えながら試合を続けていた。
4月6日時点でのカープの順位は、13試合3勝9敗1分で勝率2割5分、“ダントツ”の最下位だった。希望の光が一瞬差し込んだとしても、すぐに暗雲ただようカープであった。
3月23日の松竹戦から、4月3日名古屋軍戦まで7連敗を喫し、もし、長谷川がいなかったら、4月5日の阪神戦も敗れていたことであろう。
復興期の広島でなけなしの生活費を削って球場にかけつけ、たる募金までしながらカープを応援するファンの矛先は石本監督に向けられた。石本も1人の人間であることに違いはなかった。周囲からの圧力につぶされそうになっていたのだ。久々にペンを執り、中国新聞に手記を寄せた。
<その責任のある立場にある私は、その負担を果たすべき重圧には堪えられぬことであるから、このさい適当な人を選択してもらうほかはない>(「中国新聞」昭和27年4月9日)
そう石本は内心を実直にさらけ出している。これ以上ない苦境におかれて、さらにファンからの重圧に苦しめられた挙句の本音であったろう。しかし、この記事の内容が波紋を呼ぶことはなかった。
苦しい中、カープは高卒ルーキーに頼りながら、試合をしていく。こうした中、高卒ルーキーではないが、ある選手が入団してくる。
その男の名前は野崎泰一――。
野崎は、当時名選手が育つとされた呉市の出身である。呉市は南海の名将・鶴岡一人、阪神の藤村富美男、藤村隆男の藤村兄弟を輩出している。このことからも野崎も期待されて昭和21年、阪神に入団した。彼は呉港高校時代には、藤村隆男の控え投手として活躍。キレのいいカーブを武器に、阪神での5年間で2度の二桁勝利をあげる。昭和26年、東急フライヤーズに移籍。さらに、昭和27年にカープにやってきたのだ。入団の経緯は父親がカープの後援会のお世話をしていたことから、球団との縁があったといわれている。
野崎をカープに入れたい!
地縁から、その思いが伝えられ、カープに呉市出身のプロ野球選手が誕生した。この野崎の舞台はいきなり準備された。その試合は、5月14日の後楽園球場での巨人戦。前年、優勝している巨人軍を相手に、どこまで投げられるのか――。実績はありながらも、前年、思ったような成績があげられず、苦労していた野崎である。そこで新天地広島での縁を機に目覚ましいピッチングをファンに見せることができたのか――。彼の登板にご期待あれ。
【参考文献】
「中国新聞」(昭和27年3月21日、4月3、6、9日)
<西本恵(にしもと・めぐむ)プロフィール>スポーツ・ノンフィクション・ライター
1968年5月28日、山口県玖珂郡周東町(現・岩国市)生まれ。小学5年で「江夏の21球」に魅せられ、以後、野球に興味を抱く。広島修道大学卒業後、サラリーマン生活6年。その後、地域コミュニティー誌編集に携わり、地元経済誌編集社で編集デスクを経験。35歳でフリーライターとして独立。雑誌、経済誌、フリーペーパーなどで野球関連、カープ関連の記事を執筆中。著書「広島カープ昔話・裏話-じゃけえカープが好きなんよ」(2008年・トーク出版刊)は、「広島カープ物語」(トーク出版刊)で漫画化。2014年、被爆70年スペシャルNHKドラマ「鯉昇れ、焦土の空へ」に制作協力。現在はテレビ、ラジオ、映画などのカープ史の企画制作において放送原稿や脚本の校閲などを担当する。2018年11月、「日本野球をつくった男--石本秀一伝」(講談社)を上梓。2021年4月、広島大学大学院、人間社会科学研究科、人文社会科学専攻で「カープ創設とアメリカのかかわり~異文化の観点から~」を研究。
(このコーナーのスポーツ・ノンフィクション・ライター西本恵さん回は、第3週木曜更新)