西本恵「カープの考古学」第84回<高卒ルーキー百花繚乱編その7/新入団投手・野崎泰一、大舞台で好投!>

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 カープ3年目のシーズンが開幕する中、日本全体が揺れに揺れていた。前年(昭和26年)9月8日に締結されたサンフランシスコ平和条約により、日本が再び国際社会へと復帰し、連合国による実効支配が解かれようとしていた。

<「サンフランシスコ平和条約は規定せられた数を越える連合国がその批准書の寄託を完了しまして本日めでたく発効いたします」>(「中国新聞」昭和27年4月29日)と吉田茂首相の所信が伝えられた。

 

 さらに<「終戦以来わが国をよく助けよく導きさらに史上かつてみざる寛大なる平和を与えてくれた米、英その他の連合国にたいして、厚く感謝いたすものであります」>(同前)と続く。独立国家へ向けて期待ばかりではないが、不安を口にできる時代ではなかったろう。

 

 時期を同じくして、昭和27年4月5日、カープは広島総合球場での大阪タイガース戦に勝利した。エース長谷川良平の奮闘こそが、勝利につながったと前回の考古学でお伝えした。しかし、カープはシーズン当初から、ケガ人が多くベストメンバーで戦えていなかった。順位は当然最下位をひた走った。4月6日現在で、3勝9敗1分で勝率が3割にも満たず、2割5分だった。エース長谷川の復帰、開幕戦の高卒新人らの活躍があったが、それも一瞬の光明に過ぎなかった。

 

 この年のカープの成績は超低空飛行から、はや転落か、という悪い流れであった。社会的にも大事故が起こった。

 

「もく星号」墜落――。

 4月9日、羽田空港を飛び立った日航機301便「もく星号」が、大阪伊丹空港を経由し、福岡へ向かうという空路であったが、悪天状態もあってか、静岡県伊豆大島の三原山に激突した。機長をはじめ、乗組員、乗客の37名全員が死亡する大惨事となった。当時、すでに戦後であったが、航空業務は、日本に権限はなく、米軍が握っていた。また、飛行機運行上の管制塔業務も米軍が担うという、まさに支配下にあった。

 

 当初、海上の捜索が進められたことから、さまざまな憶測や、陰謀説までが飛び交った航空大事件となった。

 なぜ、標高わずか764メートルの三原山に激突したのか。調査委員会の報告とは、うらはらに、さまざまな憶測が飛び交い、フライト記録もアメリカから出されないという異例の事態となった。日本独立までわずか2週間あまりという時期の事故だったことから、日米関係に後味が悪いものを残した。こうした大惨事が全国的に報道され、国民の不安が膨らんだが、結果、この事故の原因究明はなされずじまいで迷宮入りした。

 

 それはさておきカープは、同日の4月9日、島根県浜田市で行われた松竹ロビンスとの一戦に、高卒で期待のかかる新人の松山昇を立てて臨んだ。

 

 すると、この日の松山は快投を見せたのだ。

<松山投手がスピードのある重い直球と切れのよい大きなドロップを巧みにミックスして、松竹打線を散発の六安打に押さえて完投勝利投手となった>(「中国新聞」昭和27年4月10日)

 

 最強と言われた松竹の打線を、松山が牛耳った。さらにはバットでも活躍。3回表、松山の会心の二塁打から、2つのバント攻撃をからめて先取点をあげたのだ。高卒新人が打てば、ベテラン勢が黙っているわけにはいかない。白石勝巳、門前真佐人、大沢清がそれぞれ2安打。計11安打を放ち、6対1でカープは快勝した。

 

ベテラン野崎登場

 

 このように、カープ創設3年目のシーズンは、新戦力に頼った時期であるが、その多くは高卒新人であった。ところが、はやベテランといえる異才の人物が移籍してきた。その男は、野崎泰一である。野崎は終戦後、昭和21年から5年間、大阪タイガース(昭和21年は阪神)に在籍し、2度の二桁勝利をマークし、主力として奮闘した。その後、野崎はセ・パ分裂の昭和25年のシーズンを終えて、翌年、東急フライヤーズに移籍し、さらに昭和27年のシーズンからカープのユニホームを着た。

 

 得意なボールは、大きく割れるドロップで、これを決め球に勝負するという当時の主流のピッチングであった。カープ入団時点での年齢は28歳で、選手寿命の短い時代でありながら、気骨のある投手とされ、強い気持ちでミットめがけて投げ込んだ。

 

 野崎は昭和27年のカープ入団時には、大阪タイガースで鳴らした全盛時代の勢いはなかった。だが、まじめで実直な性格で前年、東急フライヤーズで勝てなかったことからも、自身の復活を目指してのカープ入団であることは明らかだった。また同期入団となった高卒ルーキーの大田垣喜夫をはじめ、松山昇らの活躍もカンフル剤となっていたのだろう。練習に取り組む姿勢が認められ、ついに登板のチャンスを掴むのである。

 

 初先発の舞台は、巨人戦であった。

「カープの先発ピッチャーは野崎泰一」とコールされ、マウンドに立つ。これを迎える巨人は与那嶺要、千葉茂、青田昇、川上哲治ら擁する強力打線、前年、セントラル・リーグの覇者である。巨人の先発投手は、この年、7連勝と波に乗る大友工であった。

 

 野崎は短気で強心臓と言われていた。この試合は本人にしてみれば願ってもいないほどの大舞台であり、自身の復活をアピールする絶好のチャンスであった。

 

 この日のピッチングは冴えに冴えた。

<五回まで一人の打者も出塁させず>(「中国新聞」昭和27年5月15日)

 何ものかに取りつかれたかのように、好投を続けた。5回までであるが、巨人の強力打者たちを完全に抑え込んだ。後のインタビューで、野崎はこの日の自分をこう振り返っている。

 

<「不思議やね。カーブが面白いように決まった」>(「デイリースポーツ」平成20年6月11日)

 いっぽう、カープの攻撃であるが、初回に巨人の名手、サード宇野三雄のエラーがからんで1点を奪い、試合展開を優位に進めた。その後、4回まで毎回先頭打者が出塁するという、意外な展開に野崎も行けるかも――と感じていたはずだ。

 

マーカット少将の送別試合に好投!

 

 カープは初回の1点以降は追加点を奪えず、わずか1点リードの1対0で、9回に入った。9回表、長持栄吉が三塁打をかっ飛ばすと、続く門前真佐人が、タイムリーヒットを放ち、追加点を挙げた。

 

 野崎自身の投球にわずかながら陰りが見えたのは、最終回のことだ。巨人の攻撃時、なんと千葉茂にライトフェンスオーバーのホームランを打たれ、この日のお役御免となった。

 

 エース長谷川がリリーフのマウンドに上がった。野崎のカープ移籍後初勝利は、エースに託されたのである。長谷川は巨人打線相手に耐えながらも粘りのピッチングを見せる。巨人4番の小松原博喜のヒットで出塁を許すと、その後キャッチャーのエラーと、野手陣のエラーがからんで、無死一、三塁と長谷川を攻め立てた。

 

 ところが巨人は<決定打なく広島の快勝を許す>(「中国新聞」昭和27年5月15日)

 なんとか逃げ切ったカープ。この試合で、野崎はカープ入団初白星を掴むのである。

 

 この後、野崎は、長谷川に握手を求めた。

<「緊張した。もし打たれたら(野崎さんから)何を言われるかわからん」>(「デイリースポーツ」平成20年6月11日)と、野崎は長谷川から声をかけられた。しかし、当時の野崎の気持ちとしては、「打たれてみろ、許さんぞ」の気持ちはあっただろう。

 

 いずれにせよ、野崎は大舞台で、カープでの初勝利をあげ、昭和27年新人投手ら同期入団の仲間入りをするのである。

 

 試合のことについて、デイリースポーツ(平成20年6月11日)では、こう回顧している。

<1952年5月14日の後楽園球場での巨人戦。在日米軍・マーカット少将の送別試合に、先発の大役を任され、カーブを連投。五回までノーヒットの力投をみせた>

 

 野崎は、日本が国際社会に復帰した直後、日本のプロ野球の復興をもたらしたウィリアム・マーカット少将が母国へ帰還する送別試合で、大奮闘したのだ。マーカット少将はGHQにおける経済科学局長を務める傍ら、日本プロ野球の2リーグ化やコミッショナー制度の創設など、日本のプロ野球の発展に尽力した人物である。そのマーカット少将の送別試合という大舞台でカープ初勝利を挙げたのだ。

 

 さて、次回のカープの考古学であるが、このマーカット少将について深堀りしたい。また、この年入団した高卒新人投手に加え、野崎のような移籍入団選手が見せ場をつくる中、次なるヒーローは生まれてくるのか。まだシーズンは始まったばかりである。ご期待あれ。

 

【参考文献】

「中国新聞」(昭和27年4月8日、10日、11日、29日、5月15日)、「デイリースポーツ」(平成20年6月11日)

 

西本恵(にしもと・めぐむ)プロフィール>スポーツ・ノンフィクション・ライター
1968年5月28日、山口県玖珂郡周東町(現・岩国市)生まれ。小学5年で「江夏の21球」に魅せられ、以後、野球に興味を抱く。広島修道大学卒業後、サラリーマン生活6年。その後、地域コミュニティー誌編集に携わり、地元経済誌編集社で編集デスクを経験。35歳でフリーライターとして独立。雑誌、経済誌、フリーペーパーなどで野球関連、カープ関連の記事を執筆中。著書「広島カープ昔話・裏話-じゃけえカープが好きなんよ」(2008年・トーク出版刊)は、「広島カープ物語」(トーク出版刊)で漫画化。2014年、被爆70年スペシャルNHKドラマ「鯉昇れ、焦土の空へ」に制作協力。現在はテレビ、ラジオ、映画などのカープ史の企画制作において放送原稿や脚本の校閲などを担当する。2018年11月、「日本野球をつくった男--石本秀一伝」(講談社)を上梓。2021年4月、広島大学大学院、人間社会科学研究科、人文社会科学専攻で「カープ創設とアメリカのかかわり~異文化の観点から~」を研究。

 

(このコーナーのスポーツ・ノンフィクション・ライター西本恵さん回は、第3週木曜更新)

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